
この記事で書くのは松本清張著『砂の器』です。野村芳太郎監督映画については補助としてのみになります。
とはいえ私は、野村芳太郎監督・橋本忍脚本の映画『砂の器』を二十歳の頃、リヴァイバル上映で観て感動したものです。
長い間その記憶を持っていたのですが後年再鑑賞した時、あまりの仰々しさを感じ、以前の感動が覆ってしまったのでした。
その後さらに観返してやはりこの映画の意義を感じたもののあちこちに疑問を持ち始めたのです。
さっさと原作小説を読んでみればよかったのですがすっかり読書から離れてしまった目はなかなか長編小説を読み進みきれません。
あれやこれやで映画への疑問を解くにはやはり原作を読むしかないと長い時を経てついに松本清張著『砂の器』を読むに至ります。
ネタバレします。
あの感動映画『砂の器』のどこに私は疑問を感じたのか。
それは「ハンセン病の父親と共に旅をした、という悲しくも美しい過去を持ちその思いを音楽にこめて表現する和賀英良という芸術家をしてなぜ恋人女性に堕胎を命じるような人非人に仕立てたのか」ということだった。
「自分の子を殺せと恋人にせまり彼女そのものを死に追いやる男に対し父子の情という意味で感動できるのか」
この疑問を持つのはおかしいことなのだろうか。
「音楽家として成功するためには仕方ないことだった」と納得できることなのだろうか。
しかも映画の中の和賀英良は加藤剛といういかにも誠実なイメージの俳優が演じており悪魔に魂を売ったような男に見えない。
映画では「あれほどの思いをした父と子だよ」と誠実な男である三木謙一が緒形拳のあの目で訴える。
観客はその感動に涙するがその一方でその「子」である秀夫=和賀英良は自分の「子」を殺すのだ。それにはなんの思いも起きないのか?
そのちぐはぐさが私には奇妙だったのだ。
そもそも映画を作る時に和賀英良を「良い人に見せかける」ようできたはずなのに?
しばらくして思ったのは「そもそもこの物語は(少なくとも原作では)”女と子供に酷いことをする男”というものを弾劾するために作られたのではないか」ということだった。
つまり「ハンセン病患者の苦しみ悲しみを訴える」のは後付けで原点は「男というものの浅ましさを描く」物語だったのではないか。
野村監督『砂の器』のテーマとなった「父と子の愛」は偽装なのだ。
真のテーマは「男の醜さ」だったのではないか。
それを思いついてしまうと松本清張原作『砂の器』を読んで確かめるしかなくなったのだった。
さてこういう思いに至ったのは突然のことではなくここ最近松本清張の小説及びその原作映画を幾つも読み鑑賞したからだった。
清張作品は女性に共感したものが多い。
昭和時代、社会的には非常に弱い立場に置かれた女性たちへの共感と同情によって描かれ、さらにそうした女性たちに犠牲を強いる男性たちへの怒りまたは冷笑が記される。
強い立場を利用して女達を踏み台にし立身出世していく男を清張氏は許さないのだ。
前置きが長くなってしまった。
こうして私は小説『砂の器』を読むしかなくなった。
長い作品でありまだ再読とまではいかないので読み飛ばしたところもあるだろうが勢いにまかせて書いていく。
さて第一読後感想としては「やはりそうだったのか」という熱い思いがある。
やはりそうだった。
松本清張の『砂の器』は「ハンセン病患者とその家族への同情」ではなかった。
描かれているのは確かに「いい気になってる男たちへの怒りの鉄槌」だったのだ。
原作の和賀英良は映画とは全然違うイメージだ。
なにしろ原作の和賀はクラシック作曲者ではなくピアノも弾かない。
「ミュージックコンクレート」という電子音楽作曲家なのだ。
これで謎の一つが解けた。
上には書かなかったが「英良がいくら天才だったとしてもクラシックをかなりの年齢になってから(10代半ば)始めるのは難しいのではないか。映画では英良がいかにしてピアノを弾けるようになったのかの描写はない」という疑問がある。
原作では、始まったばかりの電子音楽作曲でしかも「様々な既存の音楽の組み合わせをしているだけだ」と描かれるのだ。
余談だが私たちは『砂の器』の数十年後に騒動となった『佐村河内事件』と重ねてしまう。
この事件でも音楽経歴の無い佐村河内という人物が一躍音楽界の寵児となった。
はじまりは「シンセサイザー」だったと記されている。
その時『砂の器』を思い出す人はいなかったのか。
映画の方が印象深いのでそうはならなかったのか。
というところで時間がきてしまった。
もちろんまだ続く。