ガエル記

散策

『砂の器』松本清張 その2 『砂の器』の意味はなにか

書き進めていきます。

 

 

ネタバレします。

 

 

野村監督映画『砂の器』を観た後に原作小説を読んで思うのは果てしなきじれったさだ。

映画は143分にまとめるためにトントンと話が進む。

それゆえに映画観賞は実に心地よく感動へと運ばれていった。

だが松本清張の小説はそうはいかない。

映画を観た後の読書なのに主人公今西刑事と丹波哲郎がまったく思い重ならなかった。

小説の中の今西栄太郎はくたびれた中年男でしかない。仕事熱心の割には給料も安いようだ。彼の捜査はとにかく自分で動いて確かめることにある。足で稼ぐ捜査である。地道な捜査は映画のようには進まない。

昔の鈍行列車で遠い場所へ行きひとりひとりと会話しそして手紙で問い合わせをしたりする。手紙が早く届かないかと待っているのである。

気を長くしないと何も進まないのだ。

メールで済ませちゃえよ、ライン友だちになっちゃえよ、と苛立つがどうしようもないのである。

その姿に男らしくてきりりとした丹波哲郎のイメージは出てこないのだ。

だが若き相棒の吉村くんはなかなか良い感じであった。

 

映画には現れない「今西の生活」が小説では描かれている。

夫思いの実直な妻との間には息子が一人のつつましい生活をしているが家にはまだ風呂を作ることができずにいる。

遅く家に帰ると妻が茶漬けと熱燗を出してくれるのが楽しみといった感じだ。

おもしろいのは映画では男ばかりしか出てこないのに清張原作では今西の妻や妹がかなり登場して彼にヒントのようなものを与えてくれる。女の視点が変化を持たせてくれるのだ。

こうして読んでいると今西刑事は松本清張自身ではないか、と思う。

本作小説を書いていた頃の彼はすでに50歳頃だ。今西の年齢は45歳とある。

歩き続け働き続ける今西の仕事ぶりは松本清張の人生と重なる。

今西は丹波哲郎の姿ではなく松本清張の面影に重なるのだ。

彼の小説家デビューは遅く40歳を迎えてからになる。

それまでの氏の履歴を見ればその生活は楽なものではないとわかる。

清張氏はそもそも生まれから広島なのか福岡小倉なのかというあやふやさがある。

ここに至っては松本清張は今西刑事ではなく和賀英良=本浦秀夫ではないか。

広島市で生まれ小倉で育ったのだが父親が広島で出生届を出していなかったために小倉でやっと届けだした、が、生まれは広島市なのだという。

また父親は養子なので元々の名前は田中姓であったようだ。

松本清張は田中清張だったかもしれないのだ。

こうした戸籍の出し間違い、養子になったかで名前が変わる、という事象はそのまま『砂の器』ではないか。

 

また清張氏の父親は借金取りで逃げ回っているような父親だったが同時に子煩悩で息子を非常に可愛がっていたとも書かれている。

ハンセン病で旅に出る千代吉・秀夫父子と奇妙な重なりを感じてしまう。

この和賀英良=秀夫と松本清張の奇妙な重なりを経て彼のイメージは今西刑事に重なっていく。

貧しく学歴もない松本清張は苦難の青年時代を過ごす。

彼は35歳で朝鮮へ従軍している。家族も抱えている身での従軍だった。

終戦後清張氏は佐賀県神崎郡に戻るが会社給料だけでは生活できず休日に藁帚売りをして生計を立てたと書かれている。

そうした中で小説を書き数年後にやっと小説家となりその後破竹の勢いで執筆しまくるのである。

その様子は歩き続けて犯人を見つけ出す今西刑事そのものに思える。

 

そんな松本清張氏にとって「ヌーボーグループ」のモデルになった当時の若き芸術家たちの華々しい活躍は正直嫉妬の対象であったのではなかろうか。

生活の苦労もなくぬくぬくと芸術に没頭し政治家の娘で自らも芸術家をきどる女性との結婚を望みその一方純愛を捧げる女性を死に追いやる和賀とその仲間関川の言動は松本清張の嫉妬の現れであると考えられる。

松本清張は自分の作品の中でそうした鬱屈を昇華したのではなかろうか。

とはいえ年齢は違えど清張氏自身だって「成功した芸術家」であるのだ。

今西刑事が追いつめていく和賀英良の過去が自分自身の過去になっているという不思議がある。

なぜ松本清張は和賀英良の生まれ育ちを自分自身に重ねたのだろうか。

生まれつき恵まれたアーティストが自堕落になっていく様を描いても、いやその方が「上級市民への復讐」に成り得たのに清張氏は「和賀は自分自身でもある」と表現したのだ。

ここに松本清張作品の深みがある。

単純な復讐ではなく自分自身への復讐でもあるかのようだ。

つまり和賀もそれを追い詰める今西も松本清張なのだ。

 

さてタイトルの『砂の器』とはなんだろう。

野村映画では幼き秀夫がその小さな手で懸命に砂の器を作る場面が登場する。

むろんこの場面は小説にはない。

小説では秀夫の幼き日の旅の情景はほぼないからだ。

砂で作った器を秀夫が並べていくがそれがすぐに崩れていくのは観客に察せられる。

ハンセン病の父に伴う運命にある秀夫をその砂の器になぞらえているのだ、と観客は思いを寄せ涙を禁じ得ない場面である。

だが繰り返すが小説にはその表現はないのである。

代わりにそのイメージに近い表現がある。

それは和賀英良を愛しながらなんの見返りも得られず自殺する恋人・成瀬リエ子が残した手記である。

リエ子は書く。

「三年間愛は続いたが何も築き上げられるものはなかった。これからもそうだろう。未来永劫にと彼は言う。その空虚さにわたしは自分の指の間から砂がこぼれるような虚しさを味わう。わたしの生きる限り彼はそれを続けさせるのだろうか」と。

砂の器』とはこの小説にほとんど登場しない影の薄い女性成瀬リエ子が感じた「虚しさ」のことではないのだろうか。また同時に関川の恋人三浦恵美子でもある。

ハンセン病の父を持つ少年の意味ではなく、成長した彼が女性に犠牲になることを求めたその心理が『砂の器』だったのだ。

和賀と関川が名もない女性たちに強いた犠牲を『砂の器』と清張氏は言ってるのではないか。

 

砂の器』の意味が映画と小説ではまったく違うのだ。

だが映画でもそれを思わせる悲劇の場面・和賀のかわいそうな恋人女性はしっかりと描かれている。

それでも観客は和賀の恋人のことはほとんど素通りしてしまうのではないか。なんならめんどくさいまである。

誰もがハンセン病の父とその子の悲劇に目をくらませられてしまうからだ。

しかしこの物語のテーマはハンセン病の父子ではなく「出世のために女性の犠牲を強いる男性の傲慢」なのだ。

その犠牲は『砂の器』なのだ、と松本清張は描く。

小説が書かれたのは1960年頃、この時期に男性がこのテーマで描いた作品があったのだろうか。

松本清張は繰り返し女性の悲劇を描いている。

なぜそこまで?とも思うがだからこそ松本清張作品は時代を経て今でも読み継がれているのだ。

 

砂の器』は女性の死体で作られているのである。

 

 

もうひとつ、映画と小説の違いで今西刑事が大阪の区役所で和賀の戸籍を調べる場面。

映画では女性の受付から男性の説明に代わったが小説では一人の女性がずっと説明をしていく。

緊張感のある良い場面なのだ。

なぜここが映画では途中から男性に代わったのだろう。

現在作るなら是非女性職員に全部語らせてほしい。

そこがとても良いポイントなのに何故と映画を残念に思う。

女性の説明では物足りない、とでも思ったのだろうか。逆だろ?