1998年「大映」
以前観たような気がするがよくわからない・・・こんな恐ろしい映画を。
それが怖い。
ネタバレします。
いやあおもしろかった。
黒沢清だからなにかあると思っていてもおもしろかった。
冒頭のくねくねした坂道をゆっくり車で走る、というところからすでに没頭させられる。
蛇の道、だからね。くねくねしてるんだ。
よくわからない男たちふたり。
ひとりは哀川翔だからなんとなく凄い男だろう、という予感はさせる。
もうひとりはよくわからない男、と思ったら若い香川照之だった。哀川翔はまったく変わらないが香川照之は若いとだれかよくわからないのだと知る。
とにかくよくわからない若い照之は殺された娘の復讐を目指しており見るからに凄みのある哀川翔はなぜかその照之の手助けをしていくのだ。
と説明される。
なぜ凄みのある哀川翔がよくわからない照之の手助けをするのか。
観るものは混乱する。
もしかしたら哀川翔はいなくて照之の妄想なのか、とすら思った。
弱い自分を奮い立たせるために強そうな男が手助けしていると思い込んでいるのだと。
でなければ神仏が化身して照之に味方しているとかの。神仏が殺人してはいけないならなにかの化身かと。
ところが途中から次第に照之が奇妙に怪しくなってくる。
哀川翔は照之を助けながら復讐の的である男たちを捕まえ拷問にかける。
といっても肉体的な損傷ではなく精神的な辱めという拷問だ。
彼らとの会話の中で照之自身が彼らとつながりがあったと知れてくるのだ。
さらに。
哀川翔は不思議な「塾講師」をしている。
見るからに意味不明の数式を解いていく、という謎めいた塾講師だ。
なぜか一番年若い少女がその難解な数式を解き明かす。
哀川翔が書いた回答を添削するほどの知恵を彼女は持っていて哀川翔も感心するほどだ。
この数式が何の意味なのかはわからないが黒沢清はこの不思議な塾講師という設定が好きなのではないだろうか。
ずっと後に製作した映画『岸辺の旅』で浅野忠信演じる男がときおり訪れる田舎の人々の前でこれも不思議な宇宙解説をする、というエピソードがある。
この映画は原作ものだがもし原作にすでにこのエピソードがあるのなら黒沢清はそこに惹かれたのではないだろうか。
私自身、『岸辺の旅』のこのエピソードが忘れられず何度も脳内で繰り返した。
同じような話が本作にあったので「ああ」と思ったのだ。
このエピソードが好きなんだ、と。
さて物語は奇妙にくねくねと展開していく。
そもそも。
自分の娘が酷い目にあったという話を何度も何度も繰り返し聞かせるというのは自分自身も聞いているわけで、そんなことがありうるのだろうか、と気づくべきだった。
イヤ気づいていたが「映画的手法なのだから」と自分を納得させていたのだろう。
そうだ、この映画作品はそんな「よくある映画的手法」に対して「おかしいのでは?」と問いかける作品なのだ。
だからこの映画では「いろいろなよくある映画手法」を並べて見せて「おかしいのでは」と問いかけていく。
なので目標の相手を捕まえて走るふたりの様がおかしいのである。
(上画像参照)
クローズアップになりがちな場面を引いて撮る。派手なアクションが醒めている。
それでも、なぜか面白いのだ。
いやだからこそおもしろいのだ。
こうしてエンディングへと我らは導かれる。
哀川翔の正体が知らされる。
哀川翔はやはり哀川翔だった。
決して神仏でも妄想でもなかったのだ。
そして照之は今観ると無性に納得されてしまう照之である。
彼の中にこそ暴力性があったと証明された。(いやしなくてもよかったんだがねえ現実)
哀川翔の塾を出て少女を観る時彼を見て我らはすべてを予感させられた。
『蛇の道』
おそろしい映画であった。
近年同監督によってリメイクされアマプラでも観られるが今回私はスルーしようと思う。