2020年「中央公論社」
昨日まで読んできた『人びとの社会戦争』の中に含まれる光景のはず。
ネタバレします。
一 女が育てた阪神間文化
「芦屋」とか「船場」とかのイメージがまったくない人間としてはそれらをいちいち想像するだけで楽しくなる。
小説を読む楽しみの一つである。
ここを読むと「船場」はあくまでも「働く場所」である、らしい。
商人の町である大阪が工業都市となり「東洋のマンチェスター」となったため空気が汚れ住環境に適さなくなった。それゆえ女子供は西の方角・芦屋へと移り住む。
しぜん、谷崎潤一郎の興味は男が働く船場ではなく女たちが住む芦屋となる。
『細雪』で描かれた阪神間文化圏の世界は、大阪から自立した女性たちだけの世界であった。
今現在日本のクリエイターたちは「女だけの世界」をよく描いているように思える。
長い間、世界は男たちのもので女はそれを彩るための存在として使われてきたのだが現在はなぜか男性クリエイターたちがこぞって「女だけの世界」を作り上げている。そこには男の姿がない。いてもその影は薄い。
時代がついに谷崎潤一郎に追いついてきたのだろうか。
その世界に到達するまでには女性たちのBL活動があったからこそ、と言いたいのだがそれはまた別の時に。
二 船場という共同体
『細雪』は蒔岡家の美人四姉妹の物語だ。
長女・鶴子は銀行家の夫を持ち子だくさんで幸せそうだ。
次女・幸子は作者谷崎潤一郎の愛妻・松子をモデルとしているためもあって姉妹の中でも特に優雅なイメージである。
一人娘がいて未婚のふたりの妹の世話を甲斐甲斐しくしている。
三女は姉妹の中で最も美人とされる。この小説はほぼこの雪子のお見合い話を核にして進行していく。とはいえすでに彼女は三十歳を超えているのだ。とてもそうは見えない若さと美しさとはいえ現在でも三十過ぎは婚期を逃しつつある年齢と言えそうだ。(女性は出産を考えねばならないからなあ)しかし彼女は一向に結婚を急がない。これも今風ではないか。本人よりも周囲特に男性たち(姉の夫たち)が苛立っている。
末娘の妙子は現代っ子の典型で「女も働いていかねばならない」と考えている。
男との付き合いに慎重な三女とは違い性的にも自由奔放で泣きを見る。
幼馴染の啓ボンとは腐れ縁のような関係だ。啓ボンは遊び好きで働くことは一切なしのぐうたら男だがそれでも幸子は妙子の結婚相手にはちょうどいいのではないかと考える。
働き者の庶民の男よりも船場のお坊ちゃまである啓ボンは「同じ人種」として観られるからだ。
芦屋の女はこうした考え方をしているのだ、と谷崎は描く。
貴族的な思考である。
そしてその貴族的な蒔岡家は没落していく。
その様子を見て涙ぐみはするがだからといってあくせく働くことはしない。
「滅びの美学」というものを私は変なものだと思っていたが、いや確かにそういうものなのだろう。
滅ぶのなら足掻くことなく滅べばいいのだ。
三 モダン都市大阪の活気のなかで
谷崎潤一郎には申し訳ないが『細雪』を読んでいてもさほどその舞台である町に興味は持たなかったが川本氏の文章で船場・芦屋の街並みに羨望を持ってしまった。
阪神間のお洒落な街並みの描写、オリエンタルホテル、トアホテル、という説明を読んでいるとその頃のその場所に行ってみたくなってくるではないか。
むろん富裕層でなければ楽しむことはできないもののそうした映像も見てみたい。
戦局でなければ『細雪』はもっと淫靡な描写がされたらしい。
「蘆屋の不良マダムの話をもっと入れる筈だったが時世がだんだん険しくなってそれを一切書くことができなくなった」
のだという。
たしかに『細雪』を読んで(私は谷崎文学をよくは知らないが)イメージする『卍』『痴人の愛』とかとまったく違う健全なものだったので驚いてしまった。
自由に書けていたらそうではなかったのか。
とはいえだからこそ多くの人が読むことができたのだろうとも思う。
どちらが良かったのかはわからないがそういう運命の作品なのだ。
そもそも川本氏は『細雪』を没落貴族の物語として語られているが私はどうしても
「旧日本そのものの没落」としてしか読めなかった。
戦争を境にして古き日本は死んだのだ。
妙子の死んだ美しい子どものように。こんなに美しい子は見たことはないと医師は告げる。
しかし私はその後の日本しか知らないから「へえそうなんだ」としか思わないし思えない。
古き日本は美しかったのかもしれないが私は『細雪』を読んでこんな世界は終わってしまってよかった、としか思わない。
奇麗な部分は良いだろうが格差があまりにも気持ち悪いからだ。
その上で読んでいる。