ガエル記

散策

『「細雪」とその時代』川本三郎 その5

ネタバレします。

 

十四 阪神大水害

昭和十三年(1938年)阪神地方は未曾有の大水害に見舞われた。

『細雪』の中巻ではこの大水害が描かれている。

この年は五月から雨が多く六月の入梅以来間断なく降り続いたという。そして七月三日から五日にかけて集中的な雨が降り大水害を引き起こす。

五日の朝は土砂降りだったが休校にはならなかった。そのため犠牲者が出た学校もあったのだという。

陳舜臣もこの時の様子を回想し著書としている。

期末試験が始まったものの豪雨のために試験は中止され下校することとなるが神戸の市中を濁流が押し寄せ張り渡された太いロープにつかまり進んだのだという。

 

現代では阪神淡路大震災を思い起こすように当時の阪神間の人々にとっては昭和十三年の大水害は忘れ得ぬものだったろうと筆者は記す。

だからこそ谷崎は『細雪』の中にこの大水害を描き入れたのだろう。

映画では1959年版では取り入れられていたものの1983年版ではすっぱりカットされていた。

やはりそれだけ思い入れが違うのだ。

私達にとっては阪神や東北の大震災を映画に描き込まない選択はやりにくいだろう。

 

そしてこの大水害によって末妹・妙子の恋心が啓ボンから板倉へとはっきり移り変わる。奇麗なズボンをまったく汚さなかった啓ボンと命懸けで自分を水害から救い出してく売れた板倉とを比較したら妙子の心が変化するのは当然である。

しかしそのことによっても姉たちの心はいささかも板倉への感謝にはならずにいるのだ。

とはいえ当時神戸の倚松庵は絶対安全な状態で谷崎自身はまったく怖い思いはしてなかったらしい。

うーん、谷崎ってほんとうに「良い身分の人」なんだなと思う。

そのためこの大水害の生々しい描写は実際に被害にあった「甲南小学校の生徒たちの作文」から参考にしたのだという。

小説ではいつも影の薄い貞之助が雄々しく悦子を救い出すため濁流に入っていくがこの場面は谷崎の経験ではなかったわけだ。

ここでは女中のお春どんがわが身の危険も顧みず貞之助の前に立ってお嬢さんを助けようとするのが涙ものである。

 

十五 愛嬌者、お春どんの明るさ

この項はそのお春どんについて記されている。

上の記述の如く忠実で人の良い感じのお春どんはへまが多いがその点はまあ愛嬌として困るのは不潔なところなのだ。

他の女中からも嫌がられているので女中がそうだというわけではない。

入浴や洗濯が大嫌いなのだ。

 

これを読んで初めて知ったのはこうした女中さんたちが決して「田舎者」や「貧乏で仕方なく女中になった」わけではないということだった。

ちなみにお春どんのモデルとなった久保一枝さんは大阪市の生まれで女学校を卒業しているのだ。

つまり貧しさのためではなく嫁入り前の行儀見習いとして女中になっているのだ。

自分は今の今まで女中という仕事を勘違いしていた。

考えてみたらこの頃はまだ人手がないと家事はやっていけないものだったのだ。

思い返してみればアガサ・クリスティにも高学歴で有能な女中が登場していたではないか。

日本とイギリスでは違う、という思い込みからか。

女中、という言葉がいけないのだろうがもともと「お女中」というのは相当の身分だったのだが。

これはよくよく考えてみるべきことである。

 

十六 美しき桜と蛍と雪子

大阪で仕事をし神戸に住み京都に遊びに行く、というのが関西の理想であるという。

そして蒔岡家はまさにそのスタイルをとっていた。

 

三女・雪子はこの小説内では五回のお見合いをして最後に決まる。

三度目の見合い話で蛍狩りの場面が挿入される。

 

ここでも川本氏は「現代の自立意識の強い女性から見れば消極的で物足りないのだろうが、この「待つ」という姿勢が『細雪』のなかに、平穏さを生み出しているのは否定できない」と繰り返し書いているが私はやはり現在の若い女性には「雪子」タイプが多い気がしている。

妙子タイプは一昔前のように思えるのだ。

むろん雪子そのもの、というより静かに日常の中で良い人を見つける、という感じだろうか。

私も繰り返すが妙子はあまりに痛々しい。

コスパが悪いともいえる。

 

ここで川本氏は告白しているがつまり彼は雪子が苦手なのである。

そして「おそらくファムファタルとしての雪子の毒を薄めるために「みやび」の平安神宮の花見と大垣在の蛍狩りを用意したのではないか」と書く。

毒を薄める効果があったのかよくわからないが私もしつこく書くが現在の日本女性は結局雪子に戻ったのではないかと思っている。

確かに戦後妙子的な女性が活動していたと思うのだが、妙子の生き方はむごすぎる。

怒っているんだかよくわからない、感謝もしない、抵抗しないようで嫌なものはきっぱり拒絶する、とはいえやんわりと生きて行く雪子的人生こそ日本女性の生き方の理想なんではないかと思ってしまうのだ。