ガエル記

散策

『「細雪」とその時代』川本三郎 その6

 

ネタバレします。

 

十七 迫り来る戦争の影

 

『細雪』は昭和十一年(1936年)の秋に始まり、昭和十六年の春に終わるが、読者にはこの時間が伝わってはこない。

川本氏はこのことを「谷崎は日常の細部を詳しく書くが時代と社会の出来事を書くのに熱心ではない」と評しているのだが、いやいやこれは作者があえて、わざとそう書いているはずである。

思うに男性作家は社会的な事象を書くことが好きでそのことが知性の表れであるかのように信じているように思えるが谷崎はその点非常に女性的な思考をしているのだと思う。

調べればすぐにわかるが物語としては特定しないような書き方をしているのだ。

そして明確な時期を記さなくても物語として何か大きな恐怖が近まっていることを感じさせる、そのような演出になっているのである。

川本氏もあえてこのような書き方をしているのだろうか。

続く文章ではそうとも取れるがよくわからない。

 

とはいえその後に引用された立川昭二『昭和の跫音』では昭和十二年前後に発表された文学作品を読み解いて当時の庶民がどんな生活を送っていたかを推測しているのだという。

川端康成『雪国』などのそれら一連の作品には戦争や国家の話題がひとかけらもないというのだ。

川本氏はこのことから日本国民は戦争を楽観視しかしていなかったのだ、と説く。

前回読んでいった『人びとの社会戦争』からも確かに日本人が戦争に対し最初から恐れおののいていたとは感じられなかった。

260年の長い鎖国時代を経て開国してはや「日露戦争」「日清戦争」と大勝利したと歓喜していた日本国民は日中戦争も軽視し太平洋戦争もまた大勝利するものと決めてかかっていたのだろうか。

 

『細雪』では貞之助が考える「時節柄うっかりしたことを口走って関わり合いになってはつまらぬ」という警戒心が働いている。

そして周囲に住む外国人の言動で戦争の不安が近づくことを描写していく。

特に隣家に住むドイツ人一家が祖国に帰るエピソードが緊迫した時節を感じさせる。

 

だが蒔岡家も昭和十六年になるとさすがに贅沢を大っぴらにはできなくなっていく。

人気の少なくなった京都でしめやかに花見をして帰ることとなる。

確実に戦争が始まっている。

 

 

十八 病気小説としての『細雪』

『細雪』は病気の話が多い、と川本氏は書く。

確かにそうだ。

最初から「Bたらん」つまり脚気の気味があることから始まり、雪子の上瞼のシミ、見合い相手母親の精神病、見合い相手自身の精神不安定、さらに妙子の赤痢、幸子の黄疸、そして流産、娘・悦子もまた脚気そして神経衰弱、さらに妙子の恋人になる板倉の

病に悶絶しての死、妙子の死産、最後には雪子の止まらぬ下痢、というなんともいえぬ終幕である。

ここで川本氏はここまで妙子にばかり苦難を与えた谷崎がバランスをとるために最後に雪子にも「下痢を用意した」と書くのだが、これは確かにそうかもしれない。

雪子のここまでの超然とした美しさをすべて台無しにするのが「止まらぬ下痢」である。

いったい物語で他にこんなにも締まらぬ終わりがあるのだろうか。

最大最低の屈辱といってもいい。

しかし泰然としてきた雪子にも罰が下ったのである。

結婚のはじまりとしての止まらぬ下痢。

戦争のはじまりにとまらぬ下痢。

雪子は外見と違って病気もしない体を持っていたというのだが最後の最後で恥ずかしい病気となってしまうのだ。

 

そして病気の話が多い、というのも女性的な物語だからではないだろうか。

ケガ、よりは病気の話になるのだ。

女性はそもそも気が重くなる性質を多く持っているようだ。それは様々な病気とも関連しているのではないか。

 

 

終章 戦争への道

こうして日本美を体現しているかのような蒔岡家の四姉妹の物語は終わりを告げる。

それは最後末妹・妙子が「今までこんなに美しい赤ちゃんを見たことがない」と医師が告げるほど美しい女児を死産することで表現される。

未来を生きるモダンガール妙子はこれ以上ないほど美しい市松人形のような女児を死なせてしまうのだ。

それは優秀な医師のちょっとしたミスであったと書かれる。

あまりにも勿体ない、と我々読者も嘆息してしまう。

これは谷崎が愛した戦前の美しい日本人もしくは日本女性の最期だったのではないか。あえてこの赤子は女児でなければならなかった。

戦争を体験しさらに敗戦に打ちのめされ戦後アメリカナイズされていく日本人特に日本女性たちはかつてのようなたおやかさはないのだろう。

それは戦前を知らない私には知ったこっちゃない美意識でしかないがさぞ悲しかったであろうとは思う。

 

戦後、日本女性はまさしくモダンガールとして再出発することになる。

川本氏が大好きな妙子的女性が闊歩しだすのだ。

彼女たちの働きで日本の女性は頑張って生きぬいてきた。

ところが、と私は思ってしまう。

2000年を超え令和の時代に入り女性たちもまた少しずつ日本的になり初め、いや戻り始め、というのもおかしいのか、日本独自になっているような気がするのだ。

妙子的な自由恋愛は鳴りを潜め、無理矢理に恋愛・仕事をするのではなくもっとゆるやかになっているように思えてならない。

それが「現在の女性はむしろ雪子化しているのでは」と思うところなのだ。

妙子のような激しさではなく、雪子のような平穏な生活を求めているのではないか。

ゆるゆるとした人生を。

 

あとがき

 

川本三郎氏は書く。

「五十前後から昭和期日本に強い関心をもつようになった」

これは私も同様でごらんのように「日本近代史」というカテゴリを埋め続けている。

若い頃は欧米文化にばかり興味を持ってきた反動だろう。

今は日本文化に興味があって尽きない。

川本氏が書いているとおり私も様々な近代作品を経て「谷崎文学」特に『細雪』に行きついた。

谷崎の他の作品はやや偏った性質のものが多い気がするが『細雪』は戦時中に書かれたためもあってそうした偏執があえて省かれることになった。

それがかえって近代史小説としては具合が良い。

上流階級の物語ではあるが軍人男性ではなく家庭婦人の日常が描かれる貴重な作品なのだ。