ガエル記

散策

『ラ・ラ・ランド』デミアン・チャゼル

2016年「サミット・エンターテインメント」

さすがにこれは観ていたし、しかも数回観ていたけど今回が一番集中して観てしまった。

 

ネタバレします。

 

最初観た時はまあまあ面白いくらいだったしニ三度目には前観た時より良かったな、といった印象を持っていたのだけど今回観てあり得ないくらい感動してしまった。

どういうことなんだろう。

 

緻密に計算された映画作品で作りすぎなほどなんだけどそれがむしろ心地よいのも不思議。

今回で気づいたのは本作映画の主演はライアン・ゴズリングなんだということだった。

ダブル主演ではあるだろうが、エマ・ストーンの活躍が多いので彼女が先かと思ったのだけど出演者名でライアン・ゴズリングの名が単独で先に表示される。

確かに本作はゴズリング演じるセブがハイウェイの車中でイライラしながら選曲をしている場面から始まり自分の店で彼女を見送り曲を始めようとする場面で終わる。

この映画はむしろセブの視点で描かれているのだと今回初めて気づいた。

 

それでいえば本作もアメリカ人が大好きな「一途に恋する男の物語」である。

最初からミアには金持ちそうなボーイフレンドがいたし終りでもセレブそうな男と結婚して一児までもうけている。

に対しセブには他の女性の影はなく最後にも恋人も妻もでてこない。

セブはあくまでもミアひとすじなのである。

アメリカの作品においてこれは絶対なのだろう。

 

思えば仕事に対してもセブは頑固に一途なのだ。

あくまでもジャズにこだわっている。

揺れているミアとはちょっと違う。

ここにも男視点での女性像が感じられる。

 

私は「アメリカ男性が作るラブストーリーはすべて『グレートギャツビー』に帰結する」と睨んでいるのだけど本作もやはりそうであったと今回確認した。

まったく偶然かもしれないが1974年映画版のギャツビーの思い人はミア・ファローが演じた。

本作のミアという名前はそこからきたのではないかと勘繰ったりするのだがどうだろうか。

揺れ動く心を抱える不安定な女性を思い続ける男性というのがアメリカのクリエイター男性の理想なのではないかと。

 

本作のセブはほんとうにロマンチストな男なのである。

こんな男がいるのかどうかよくわからないがアメリカ男性はそうでありたいとそうであってほしいと憧れているのだろうと思う。

一方日本男性の理想は「男は女に恋をしない。女に恋させるのが男の本望」なのだと私はみている。こちらはもっと無理だと思う。なので現在ネット上で男たちはイライラしている。

女たちがまったく(自分という)男に恋してくれないからだ。あたりまえだ。恋を受ける男はほんの一握りの男だけなのだから。

 

話がそれたが本作はまったくロマンチックであふれ素晴らしい映像に酔いしれることができる。

そしてその中に繰り返し流れる「スターの街(City of Stars)」で泣いてしまうのだ。

 

そして最初から最後まで泣いているのはミアではなくセブのほうなのだ。恋をしているのはミアではなくセブ。

セブは彼女が思い描く男になろうと努力して上手くやれずそして彼女をスターの座に連れて行き、そして消え去る。

彼女は幸福な女性となったのを悲しい思いで見つめるのだ。

 

この話は『シラノ・ド・ベルジュラック』でもあるのだな。

あれは泣いちゃうの。なんで泣くのかわからんけど泣いてしまう。

なぜか私は男に共感してしまう。

ちょっと距離がおけるからだろうか。

 

とにかく私は今回セブに同調して観てしまったのだ。

あ、そうか。

今回の私はライアン・ゴズリング鑑賞をするのが目的だったので彼を中心に観てしまったのだ。

これまではたぶんミア側から観てしまっていた。

ゴズリングの方に立つと泣いてしまうんだ。

ゴズリング=セブの眼で見ているとミアが可愛くて仕方ないんだ。

彼女を守りたい、愛したい、愛されたいと思っているのになぜかうまく行かず逆に彼女と喧嘩してしまう。

良かれと思って仕事を受けたのに彼女はそれで機嫌を損ねてしまうからだ。

「きみのために俺は(嫌な)仕事を受けたのに。将来きみが望む店を持つために」

その後、ミアがキャスティングされるかもしれないという電話が自分の携帯にかかってきてセブは急いで彼女の家に行く。

彼女が図書館の側に住んでいたと言ったのをちゃんと聞いていたんだ。

そしてミアは願いが叶いパリへと向かう。

 

その後の話はもう書けない。

でも彼女は幸福になった。

願いがかなったんだ。

彼女は念願の女優になり結婚もして子供も生まれた。

そしてセブは彼女が名付けたとおりのジャズバー「Seb's」を作り、念願どおりの好きなジャズだけを弾いている。

 

「願いはほんとうに叶うかもしれないから気をつけて」

という言葉が『アヴァロンの霧』という小説に書かれていた。

いわゆる「猿の手」である。

「願いをかなえるために何かが失われてしまう」のだ。

ふたりは願いをかなえたために「ふたりの愛」を失った。

それは幸福なのか。

だが、ではどちらかが或いはふたりとも願いをあきらめたなら。

その答えはよくわからない。

 

だから泣いてしまうんだろう。