ガエル記

散策

『ブレード・ランナー 2049』ドゥニ・ヴィルヌーヴ/主演:ライアン・ゴズリング

2017年「ワーナー・ブラザース」

予習もしっかり行っての本作鑑賞に挑みましたが現在の私はあまりこの映画を楽しむ気分ではなさそうです。

 

 

ネタバレします。

 

 

前作の『ブレードランナー』を基盤として優れた作品に仕上がっているのは把握できるのですが昨日のように夢中になって浸る気分になれない。

これはもう仕方ないのかもしれない。

ひとつは前作をリスペクトするあまりなのか「笑い」が皆無なのもある。

前作は冒頭のデッカードの屋台親父とのやりとりを始め「異世界」というか異質な未来空間を楽しむ気分が大きかった。

ハリソン・フォード演じるデッカードがやさぐれたハードボイルド男であること自体笑える気分だったのに本作のライアン=K=ジョーは笑いがない。

そもそも彼自身がレプリカントなので笑わないのかもしれないがそれを利用した、つまりクソ真面目なレプリカントをおかしがるもう一人のキャラクターが必要だったんじゃないかなあ。

名作と言われるSFは何故かシリアスなものが多いがこれは馬鹿にされがちなSFを軽く見られたくない、という意地が透けて見える。

気持ちはわからなくもないがなぜ面白いSFを楽しく観てはならないのだ?

少なくとも前作『ブレードランナー』には最初から楽しい雰囲気が満ちていて雨の降る極東の街並みもその上空を飛ぶスピナーも愉快なものであった。あの映画に登場するみんな大好き「強力わかもと」は今回「SONY」になっているがちらりとも笑えるものじゃない。

そういう愉快な空気感が圧倒的に足りないのだ。

『ブレードランナー』は名作として認知された。あのおかしな雰囲気を持ちながら。

というかおかしな世界であるからこそ『ブレードランナー』は名作であるのだと思う。

 

というかドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』も『DUNE』も観ているが全体的に笑いが少ない。

『メッセージ』ではそこまで気にならなかったのだけどこの監督のシリアス調はなかなか辛い。

もすこし「お笑い」を注入してほしい。

 

ところで気になることがあり、今回の鑑賞のためもあって、カレル・チャペック『ロボット』を初めて読んだ(正確には読み上げを聞いた)

チェコの作家であるカレル・チャペックのこの作品は有名なものだが初めて内容を知る。

1920年に執筆された戯曲『R.U.R』においてはじめて「ロボット」という単語が発明されたという。

そして初めて「ロボット」という言葉が登場するこの劇ですでに「ロボットの反逆」が描かれ以降「アシモフのロボット三原則」(1942年)が登場するまで「ロボットというものが開発されても反逆するものだ」という考えがスタンダードとなっていったという。

だがさらに「アシモフのロボット三原則」を経過してなおSFではロボット及び人造人間の反乱が作られ続けている。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(フィリップ・K・ディック著)は1968年に出版され、1982年に『ブレードランナー』として映画化される。

 

そもそも「ロボット・アンドロイド・レプリカントの反乱」というのは支配層の人間が支配してきた人間たちの反乱・革命を怖れての発想からきている、とすでに書かれている。

さらに『ロボット』当時は社会主義革命を映し出してもいてそれはそうだろうとしか言いようがない。

しかし1982年の映画ならまだしも2017年にこの発想はすでにもう古びているのではないか。

主演のライアン・ゴズリングはその後、2026年に『プロジェクト・ヘイル・メアリー』でもう一つ先に進んだSFの主人公となる。

私は映画は未鑑賞で原作小説のみではある。

人造物と宇宙人という違いはあれど人間=地球人が「異人種」とどう交流するか、という思索である。

言えば人間はレプリカントとも友好的に交流していく道がある。

 

人間はあまりにも好戦的でありすぎる。

今ふと横山光輝『時の行者』の主人公の苦悩を思い出してしまう。

人類はあまりにもすぐに人を殺そうと思いすぎる。

なんだろうなあ、やはり『幼年期の終り』を待つしかないのだ。