
ネタバレします。
母と妻と松本清張
15 清張の母、清張が描く母
この項の書き出しは本著で最も不思議な感覚、奇妙というか違和感というか謎めいたものだった。
と言っても作者の酒井順子氏に対してそう思ったわけではなく酒井氏が疑問を持ったことに「それは確かに変だねえ」という良いとも悪いとも言えない不安定な相槌を打つことになってしまったからだ。
ここで酒井氏は前にも取り上げた『砂漠の塩』をテキストにしてヒロインが恋人と初めて結ばれるという時に涙を流しながら「お母さま」と口走る、というのだ。
酒井氏は(こんな場面で)「お母さま、って言うかな」と首をひねっている。
なにしろその作品を読んでいないので実際の感覚はわからないのだが松本清張はどうかは別としても昔のお話では現在よりも親兄弟のことを強く考えていたのではないか、という気は凄くする。
東アジア圏では儒教の影響が色濃いが西洋であっても親兄弟を思うことが現在よりも多かった気がする。
関係ない話かもしれないがアニメ『宝島』のエンディングテーマで「懐かしい母にひとこと」という歌詞があり歌い手の町田義人のクールな歌い方がより胸に来る。
実をいうと私はそのアニメ作品自体はほとんど観ていないのだがその歌詞だけがとても心に残っている。
現代劇ではなくやや昔の外国が舞台の作品ということもあってあまり日常に使わないそのフレーズが使われているのかなと思っている。
「懐かしい母」という言葉に現在ではあまり抱かない感情が込められている気がするのだ。アニメとその歌自体がもうかなり以前のものではあるが。
ここで「お母さま」と口走るというヒロインの思いを酒井氏も私も理解できるのだろうか、と考えたりもする。
例えばインターネットが普及し普通の人々が世界の人々と交流できるようになった現在に「母にしか自分の思いを打ち明けることはできない」と思いつめていた昔の人の母への思いは判り難い気がするのだ。
現在ではむしろ母親にはあまり恥ずかしい内面を打ち明けたくないものだ、と皆思っているはずだ。
だが昔は母親くらいしか内面を打ち明けられないものだったのかもしれない。
しかも娘であれば異性である父親には打ち明けられない。
同性である母親だけが自分のよすがだったかもしれない。
母親に甘えたいという感情は今よりも強かったのでは、と想像する。
まあ未読なので私の勝手な憶測にしかすぎないが。
酒井氏は「松本清張の『半生の記』には母よりも父の記述が多いという。
父からはその頭脳、母からは負けず嫌いの性格を受け継いでいる、と要約していいようだ。
1960年代に入って女性の性欲に注目した作品が目立って増加する、と酒井氏は記述する。
そして2026年の現在「女性の性欲」は相変わらず「?」の状態だ。
「女性の性欲」はあるのが当たり前にはなったもののその高低、強弱、むしろ正否は様々でありすぎるようだ。
というか強いのが当然だった「男性の性欲」も以前と比較してあるようなないような混沌とした時期なのかもしれない。
男女ともある人にはあるし、ない人、嫌う人も多い気がする。
松本清張作品は「昭和の作品」として受け入れられ続けるだろうが現在進行形ではありないのだ。
酒井氏の松本清張論はもう少し続くがこの章は松本清張における「父と母」「女性の性欲」「女性の同性愛」についてはそれほど驚くことはなかった。
続く「旅する女たち」になると「ああ、これもテレビドラマに影響を与えているな」と思わせる。
松本清張といえば「鉄道旅」と連想してしまうほどのものだ。清張氏自身が大好きだったというイメージもある。
『点と線』『砂の器』の鉄道旅はもちろん『ゼロの焦点』でも鉄道旅場面が印象的だ。
女の一人旅はできそうでなかなかできないものである。
清張の小説でその夢を馳せた女性読者も多かったのではないか。
という穏やかな感じで話が終わるのかと思っていたら最後にとんでもないものが仕込まれていた。
それが次の項だ。
18 戦わなかった人にとっての戦争
ここでは戦争における女性の選択、生き方が語られる。
『ゼロの焦点』での”パンパンの在り方”は衝撃であった。この作品を遅くにやっと知った私はもっと早く読むべきだったと後悔した。
戦争によって日本の女性は女性の存在がどんなものであるかを米軍兵士によって知ったのだ。
それは経験したくない知り方ではあったが。
つまりそれまでの日本では女性は男性によって支配される存在でしかなかったのがアメリカ人男性によって「愛される存在」であると初めて知ったのだ、と松本清張はこの作品で語る。
自分が今まで読んできた聞いてきた情報では日本女性が米軍兵士によって凌辱されることばかりだったのが松本清張は「この時初めて日本女性は大切にされることを知った」と書く。
そして再び酷いことをするのは日本男性のほうなのだ。
『ゼロの焦点』のそれまでの常識を覆す清張の描き方は斬新だった。
いや、大昔に書かれていたのに私が読んでいなかっただけなのだ。
しかしその後他の多くの作品ではそのような描写考え方はされていない。
『半生の記』『赤いくじ』『絢爛たる流離』のエピソードにも胸を突かれる。
ここでは清張自身が戦時中に臨時招集されて渡った朝鮮半島の井邑という地に配属されたことから体験したこととそれによって創作された小説が語られる。
『赤いくじ』では夫が出征し女中とふたり暮らしだった日本妻、塚西夫人が描かれる。
彼女はその美貌ゆえに軍人同士がさや当てをしていたというのだが敗戦後、米兵から一般女性を守るために慰安婦を選出することになりそのくじ引きにあたってしまうのだ。
実際には米兵は慰安婦を要求することはなかったのだがくじに当たったことで周囲の塚西夫人を見る目が変わっていき彼女の運命が狂っていく、というのである。
果たしてどうなったのかは読むしかないがこうした日本人の「日本人女性を差し出すしかあるまい」という思考回路はなんなんだろう。
「おもてなし」の心なのか。
これまで多くの「男は女を守るもの」として描かれてきた映画マンガ小説などは全部虚偽だったのがわかる。日本男性は日本女性を守る気持ちなど微塵もなく「自分を守るためには女性を差し出すしかあるまい」と考えているのだ。
しかも米兵はそれを求めなかった。
なんなのこれ?
自分の尻でも差し出せよ、と怒るしかないがあまりにも空しい。
なにが「きみを守るために死にに行く」だ。あほか。
日本男性の嘘寒さを清張は暴き立てた。
松本清張の北九州を旅する
あとがき的な感じでこの章がある。
清張の故郷でありまた清張は作品で繰り返し何度も「九州」を登場させる。
酒井氏はまず博多駅から飯塚駅に向かい、資さんうどんを食し炭鉱関係の遺構を見学する。
ボタ山に目を引かれそこにも木が生えているのを見る。
最後は松本清張記念館へと足を運ぶ。
圧巻は文学館の中に再現された清張の職場だという。
書斎と二万三千冊の蔵書が置かれた書庫が清張存命当時のままに再現されているらしい。
そしてほんとうのあとがき
酒井氏は清張が書いた女性キャラクターのなか特に印象的なのは「お嬢さん探偵」と「悪女」という対称的なふたつなのではないかとあげる。
松本清張のイメージである「悪女」はその前の「お嬢さん探偵」があったからこそだと語るのだ。
そもそも『ゼロの焦点』がはじまりなのだから当然と言えば当然である。
『ゼロの焦点』は松本清張らしい様々な要素がつまっておりその主人公が人妻である「お嬢さん探偵」(酒井氏にならうならば)なのだから。
それが『張り込み』になると探偵ではないが「お嬢さん」とも「悪女」ともつかない両面を持つ女性が登場する。
『黒革の手帖』も「悪女」でありながら「お嬢さん」の局面ももっているのではないか。
酒井順子氏の『松本清張の女たち』幾つもの驚愕の発見をさせられる刺激的な一冊だった。