ガエル記

散策

『松本清張全集34』~エッセイ~より

と画像を出したのだが収録されているがこの表紙にはなぜか記されていない「エッセイ」を読んでの感想です。

 

ネタバレします。

 

 

数多く収録されたエッセイの中に「推理小説の発想」というのがあった。

 

松本清張は作家活動は40代を過ぎてからではあるが、1951年に処女作『西郷札』を書き53年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞をとり55年に『張り込み』を書いて以来作者年表を見ると清張は怒涛のベストセラー&映像化をされ続けている。今もなお話題となる清張ミステリーの魅力の謎を誰しもが知りたいところだ。

 

 

清張は『私は何によらず動機というものはすべて人間の犯す犯罪においていちばん大事な点ではないかと思っています」と書いている。

 

確かにそのとおりだろう。

例えば「被害者は誰でもよかった」というような場合でも「なぜそのような行為をしたのか」という動機は存在するからだ。

動機はその時代の社会性を反映するものだろうが「動機」によってその対象者は決まってくる。

 

清張はここで”カルディアスの舟板”というエピソードを引き合いに出す。

大海で船が沈没したとして二人の遭難者が一枚の舟板にすがって漂流している。しかし一枚の舟板に二人は無理でひとりならば助かる可能性がある場合一人の男がもう一人の人間を海中に突きとして溺死させたら罪となるか。

この命題にカルネアデスは「罪にならない」とした。

清張はこれを読みこの状態は現代の生活の中でざらにあるのではないか、と考える。

さてこの「ざらにある現代生活の中の出来事」をどこに置くかが清張ミステリーの凄さであり他の人だって考えてはいるのだが清張のようにはいかないのだ。