
『半生の記』を目的にこの本を選んだのだが同時収録されている『ハノイで見たこと』は単独ではあまり読むことができないようだ。
ネタバレします。
ハノイからの報告(1958年「週刊朝日」)
1968年3月19日、ベトナム戦争のただなか松本清張と当時朝日新聞記者だった森本哲郎がICC機(インドシナ国際休戦監視委員会の連絡用飛行機)の座席に座る。
ふたりはビエンチャン空港からハノイへと向かおうとしていたのだが何度も悪天候やコントロールタワーの故障などで飛行を断念せざるを得なかった、というのである。
この飛行機は必ずしも安全なものではなかった。数か月前アメリカの爆撃機がICC機の後ろからハノイに忍び込もうとして危うくICC機までが撃ち落されそうになったのだ。
松本氏と森本氏は当時資本主義国からの入国は困難だった北ベトナムからの招待状を受けて2月プノンペンでビザを受け取っていた。
日本からプノンペンまではよかったがふたりは偶然の障害が重なりビエンチャンで24日も足止めされてしまう。雨期ではないが曇りと小雨が続く時期であった。
ついにハノイに到着し大概文化連絡委員を務めているグエン・クイ・クイさんに出迎えられ花束を贈られる。クイさんは日本語が流暢であった。
この時同乗してきたアメリカ人にはメアリー・マッカーシーもいた。
清張氏が案内された部屋は25平方メートルはある広い応接間とそれよりやや狭い寝室。天蓋のように垂れた純白の蚊帳。三人はたっぷり入れる浴槽、と贅沢な作りであった。
松本清張の関心はむろんハノイの爆撃被害状況である。
出発前しばらくは静かだった北爆が復活しハイフォンやハノイが激しく攻撃されているという新聞記事を見た。
2月22日の新聞では「アメリカ機がハノイ中央放送局送信所をレーダー爆撃し貨物集積所をも爆撃したと伝えていた。
25日の紙面ではケサンの激戦を伝え、南ベトナムの平定はあと三週間という米軍の発表を載せていた。
松本清張はこの頃にハノイへと向かったのだ。
「近頃空襲はほとんどありません」という答えが返ってくる。
アメリカ軍が発表したという中央放送局も無事だという。ハノイの防空陣は完璧なのだという返事であった。
翌朝、清張は午前六時に起きてホテルのまわりをぶらつく。
官庁街はクリーム色の壁にオリーブ色の窓というほどよい調和の建築物で色彩も新鮮だった。
夥しい自転車の群れには若い女性や青年の姿が多い。
が、このような穏やかなハノイの情景はその晩いささかの眠りを取った後の3月20日未明に空襲警報で破られる。
清張氏は24年ぶりに空襲警報を聞きホテルの防空壕い入ったのである。
1944年の夏、アメリカ機がはじめて北九州を爆撃した時、清張は小倉にいてその警報を聞いたのだ。
清張は優雅な蚊帳の中のベッドにズボンをはいたまま寝ていて慌てて靴をはいたという。
懐中電灯を掴み鉄兜をかぶって部屋を出る。
清張は1909年生まれだからハノイのこの時59歳だ。25歳で初めて小倉で空襲を受けまたもや自ら爆撃の危険を体験しにベトナムハノイに行くなんて。
清張氏がこの時死ななくてほんとうによかった。
しかしこの状況描写さすがにうまい。
この話も映画化してほしい。
緊迫感がすさまじい。
やがて解除のサイレンが鳴り外へ出る。
クイさんは再び「我が方の対空砲火は完璧ですから(米機は)侵入することはできません。侵入すればミサイルや高射砲で打ち落とします」という。
ハノイの街には銃を持った兵士はおらず戦時中の日本のように憲兵がうろつくこともない。
平和なハノイの街には赤い幕が張られ「敵機の撃墜数が二千八百機に達した」と書かれている。
その不運なパイロットは35歳だった。
この数字が宣伝なのか、とも疑われるがホー・チ・ミン主席は敵機の損害数を控えめに発表することを好んだ。
その点、南ベトナムで政府軍やアメリカ軍がベトコンの戦死者数を水増しするのとは大違いだった。
続く