ガエル記

散策

『ハノイで見たこと』松本清張 その2

1958年

読んでいて気づいたのは今更になって私はほとんどアメリカ映画などからの知識でベトナム戦争を見ていたのだということ。

つまり日本人なのにアメリカ人の視点で考えていたのだとここにきて気付いた。

この本を読んでいなければそのままだっただろう。

怖いことだ。

 

 

ネタバレします。

 

ハノイからの報告(1958年「週刊朝日」) ───昨日からの続き───

 

北ベトナムはアメリカ機を撃墜した場所を詳しく言わないことで情報秘匿を厳しくしていた。

こうしたことで長い間アメリカ軍をきりきり舞いさせていたのだ。

アメリカ軍は北ベトナムの情報を取ることに躍起になっているが容易に入手できない。

アメリカ軍は手探り状態で攻撃しているのと同然だが北側はアメリカ軍の動きを掴んでいるのだ。

清張氏はここでリップマンの「象と蚊の戦い」という言葉を引いているのだが検索すると「ベトナム戦争は象と蟻の戦い」という表現も出てきて私にはどういうことなのかよくわからない。

とはいえ「象と小さなものの戦い」という意味であるのは変わらない。

巨大な国家であるアメリカ合衆国に対し小さなか弱き存在である北ベトナムが苦しめられ敗北してしまうのは歴史的事実である。

しかしそのために蚊もしくは蟻は多大な犠牲者を出したのも事実なのだ。

なんという残酷な戦いだったのか。

 

本文に戻る。

松本清張はハノイの人々の顔の明るさを語る。さらに自信に満ちた表情になっている、と。

「あなたがごらんになったようにベトナム人はおとなしい顔をしている。この国の娘さんは世界中で一番恥ずかしがり屋である。ホー・チ・ミン主席に会われたらたいそうおとおなしい人だと知るだろう。

それでアメリカ人はベトナム人をおとなしいと誤解しているのだ。

ベトナム人は敵と味方を鋭く弁別し味方には親切で従順だが敵には激しい反感を持ち抵抗するのだ。

ベトナムは数千年の歴史の上でたびたび強大な外国の侵略を受けている。自然の災害も多かった。このふたつの苦難がベトナムの人民を鍛え闘争力を養わせたのだ」

 

詩人のティー・ハイン氏は語る「ベトナムに初めて生まれた文学は詩です」

ホー首席も毎年一月一日に必ず詩を一つつくるのだという。ベトナムの詩は明るく楽観的であり諧謔的でもあるのだと語る。

 

ベトナム戦争のこの時期ハノイの街ではさすがに商店の店先の品は決して豊かとはいえなかったようだが食料は豊富であったらしい。

 

ベトナムは日本軍と戦い、フランスとそして世界最大の国であるアメリカと戦っている。我々はこの長い戦争に疲弊しないし決して一歩も譲らない。それどころかベトナム人の戦意はますます高揚しいたるところでアメリカに勝ちつつある、とベトナム人は誇らしげに語った後で「ホー・チ・ミン主席からは謙虚にならなければいけないと言われていますが」と照れた顔をする。

 

話はそのホー・チ・ミンに移る。

松本清張と森本哲郎はホー・チ・ミンの伝記映画を鑑賞することになる。

 

ホー・チ・ミン=胡志明は彼が後から自分でつけた名前であるという。革命思想をベトナム人に教えるという意味だという。

彼は農民の出で1910年卒業することなく高校を去り反仏運動に入る。

漁村の高等中学校の助教員となり二十歳を越したころフランス帆船にコック見習いとして乗り込み深夜まで読書した。

が、暴風雨の中フランス人がホーの同胞たちを死に追いやったのを目撃し泣いた。

同じような光景を幾度も見てきたからだ。

1913年の冬彼は船を降りてロンドンのカールトンホテルの厨房へと行く。

そこで有名なコックに目をかけられケーキ焼き場で働き多少の貯金ができた。

第一次大戦後パリの新聞に写真修正師「グエン・アイ・コック」=「阮愛国」と名乗って広告を出す。

彼はパリ及び地方在住の同胞たちと連絡をとりベトナム愛国者の団体を作った。

自らペンをとって八か条からなるベトナム独立の覚書を書きウィルソンをはじめロイド・ジョージやクレマンソーその他会議の出席者に配った。

それはベトナムの自治、ベトナム人の平等権などといった極めて控えめな要請だったが当然のことに一顧もされなかった。

彼の努力は役に立たなかったが要請文そのものはベトナムの独立問題として広く世に知られるようになった。

彼はパリの進歩的なジャーナリストに知られフランス語でベトナム独立問題の短いエッセイを書きフランス帝国主義の研究論文書を出版しついで戯曲で世に問うた。

 

1924年の冬、アイ・コック=ホー・チ・ミンはソ連線に乗ってレニングラードへ着きトロツキーなどに会う。

一旦フランスに戻り翌年ホーはソ連から中国へ入り孫文の政治顧問をしていたボロージンの下で働く。蒋介石の国民党と中国共産党のいわゆる国共合作時代である。

ホーもこの運動に参加しベトナム解放の道を探る。

国共合作が破綻するとホーはゴビ砂漠を抜けてモスクワにたどり着く。その後のホーの行方はわからないが村から村へと互助会を作り二つの新聞を発行しベトナムに持ち込ませ絶えず仲間を作り絶えず教えていた。

 

1930年のはじめホーは単一政党を準備するため香港で再結集会議を開く。ベトナム共産党はサッカーの試合が行われている屋根もない観覧席で生まれた。

ベトナムではフランス当局がベトナム共産党を弾圧しホーはイギリス当局に捕らえられたが弁護士の力で政治的亡命者となり出獄しアモイに逃れる。

第二次世界大戦がはじまりフランス本国がドイツから攻撃を受けるとインドシナのフランス政庁は逮捕していたインドシナ共産主義者たちを解放する。

ホーはベトナム共産党を中心に「越南独立同盟」を作る。「ベトミン」である。

1940年末、ホーは30年ぶりにベトナムに戻る。51歳になっていた。

フランス軍が侵入の日本軍(仏印進駐)と手を握ったためホーは抗日戦を続ける蒋介石の重慶に向かう。

この時につけた変名が「ホー・チ・ミン」であった。二週間以上の徒歩旅行の先の中国領で彼は捕えられ投獄される。

夜は足枷、昼間は首枷をつけられ時には鎖をつけられたが、ホーは歩きながら詩を作って心を引き立てた。

ユーモアに満ちた明るい詩である。

 

映画が終わりクイさんは語る「ベトナム人はホー首席と堅苦しく呼ばずホーおじさんと言っています.今の映画のように子供が好きですよ」

 

ホーはベトナム労働党を結成する。

48年4月、ホーは軍隊に対し「十二の勧告」として六つの禁止条項と六つの許可条項を出す。

 

松本氏と森本氏はハイフォンに小旅行するのだがこの日はうって変わって朝からの快晴となり気持ち悪いほどであった。なぜならレーダー爆撃ではなく有視爆撃が可能になるからだ。

 

続く