
続けます。
ネタバレします。
松本清張氏と森本哲郎氏はハイフォンへ向かう。
その日は驚くほどの晴天で日が暮れると清張氏は空から照明弾が落ちてくるような気がして空を見上げた。
トンキン湾の海岸に近づき停泊中の外国船の灯が見えると赤い光が輝いて消えた。
同時に今までの賑やかな光が一斉に闇となった。
赤い光は空襲警報の信号だったのだ。
フランス風のホテルに泊まる。
二時半ごろに空襲警報で起こされ松本&森本は庭にある防空壕へと入る。
三分もするとミサイルと高射砲の音が壕内の足元を揺るがす。
あくる日市内の爆撃跡を見て回る。
中心部は美しいが周辺の破壊地区は瓦礫の山だった。
しかし市の中心部はハノイよりもいきいきとして群衆も多くにぎやかだった。港町だからという。
北ベトナムの美しさは花に象徴される。
読んでいるだけでその美しさが見えるようだ。行ってみたい。
が、地方都市であるハイフォンはやはりハノイとは違い破壊された場所の修繕はされず全体が汚れていた。
昼食後、習慣により三時間の午睡を取る。四時に起きてハイフォン港に向かう。
マストの国旗はソ連、中国、英国がほとんどであった。
英国船から降ろされているのは自転車のタイヤであった。クレーンでソ連船に積み込んでいるのは北ベトナム産の米である。戦争中なのに米の輸出をしている。
ここで北ベトナムがアメリカからどのような被害を受けたが語られる。
ハイフォン市には二つの島があり漁業と塩で生活しているのだがアメリカはそこに3トン爆弾を投じ五千近くの小さな爆弾を落とした。ロケットやミサイルも四千近く射ち込んできた。
時限爆弾四千発を落とし密集地帯ではアパートの労働者が死んだ。
アメリカの爆撃で村は破壊され多くの子どもたちが死傷した。
しかしわれわれはこの七年間にわたり独立と自由を守るために戦った。
ホー首席の言葉は原動力となって多くの戦果をあげた。ハイフォン地区の軍隊と市民は二百の敵機撃墜を果たしホー首席から褒められたのだ。
翌日3月31日、休養日となり快晴だったがアメリカ機は来なかった。
夜十時となりサイレンが鳴る。
防空壕で久しぶりにシューマン教授とマッカーシーと共になる。
この夜は二時間の間に数回警報が出て何度もシェルターの中で会うことになる。
「ジョンソンがゆっくり寝かせてくれない」
が、11時ころに出た警報を最後にサイレンは沈黙した。
そして4月1日午前10時過ぎマニラ放送は「ジョンソン大統領による北爆停止と立候補取り止め」が伝えられる。
トンニャットホテルの日本人は騒然となった。
「十七度線の北側を除く90%の爆撃停止、南部では逐次作戦のデスカレーションをする」という報道。
松本清張&森本哲郎は歴史的な瞬間をハノイで迎えたのだ。
特に森本哲郎氏はこの時まだ新聞記者であり興奮を抑えきれなかった。
ベトナム人もアメリカの記者も落ち着いているのに「日本人だけが慌てている」と清張氏は書く。
4月3日午後9時半、北ベトナム政府からの回答声明が発表される。世界の予期に反して「ハノイは北爆の無条件停止についてアメリカと接触する用意がある」としたのだ。
これについて確認したかった清張氏たちはファン・バン・ドン首相との会見の通知を受け取る。
声明後に首相に面会する最初の外国人が松本清張だったことをさすがの清張氏も自慢げに記している。大急ぎで質問要綱を作り首相官邸へと向かう。
松本清張氏は北ベトナムのファン・バン・ドン首相に会見した。
清張氏は立派な椅子が並べられた広間の奥に誘われ奥まった一室で迎えられた。
手を差し出されたが清張氏は首相の鋭い視線に気を取られてしまう。
ここでの説明は驚くべきことだった。
先日のアメリカの声明は攻撃を続けながら北爆停止をする、という奇妙なものだったのだがアメリカ側はこの声明を北ベトナムは受け入れないだろうと予測したはずだ。
「脅迫のもとでは絶対に話し合いに応じない」筈だと。ジョンソンは北ベトナムの拒否を理由に「平和を拒むのはハノイだ」と宣伝して責任転嫁しさらなる悪質な軍事攻勢を準備するつもりだったのかもしれない、と清張氏は書く。
ワシントンはハノイの答えを聞いて困惑したであろう。
清張氏が「アメリカは見込み違いをしたのではないか」と首相に聞くとファン・バン・ドン首相はのけぞるようにして大笑いしたという。
さらに清張氏が「それがアメリカを窮地に立たせたとすればそれは北ベトナムがジョンソンの逆手をとったことになりますか」と問うと首相はそれを柔道の技と受け取り「そのワザは非常に軽い」とまた笑った。
「アメリカは無条件停止の話し合いをサボタージュするかもわかりませんね」と問うと首相はまたも「柔道に熟練した人はそんなことは心配しません。われわれは長い闘争を通じいろいろな武術を知っています」と答えた。
アメリカはタカ派であれハト派であれ国家利益追求者なのは同じだ。
アメリカはベトナムを始め東南アジア諸国に莫大なドル投資をしている。これを捨てて引き揚げることは決してないのだ。
まして南ベトナムから退くことはインドシナ半島の全面侵略から引き揚げることなのだ。タカ派もハト派も戦術論なのであってベトナム侵略という戦略の基盤は変わらないのだ。
が、ベトナム人にとっては百年間にわたって搾取あれ虐待を受け続けた奴隷生活に戻りたくないのだ。
独立の自由と誇りのために戦う意志があった。
「週刊朝日」原題『松本清張の北ベトナム報告』(昭和43年1968年4月4日~6月7日)
前に書いたが私は今までほとんどアメリカ視点でベトナム戦争を見ていたのだと感じた。
映画というのはそれほど影響力がある証明でもある。
そのことを思い知らされた。
次は同収録の「ハノイ日記」である。
ハノイ日記
第一帖 戦争に適応する街ハノイ
三月十九日(火曜)
午後五時半、ハノイ行きICC機(インドシナ国際休戦監視委員会の連絡用飛行機)でビエンチャン空港を発つ。
七時二十分ころ、雲の中を降下。ハノイに到着。
森本哲郎君とともに羽田を発ったのは二月二十五日。その日のうちにカンボジア・プノンペンに到着。
以後、二十四日間悪天候のためハノイに入れない苛立つ日々を送る。
七時三十五分ジアラム空港に着陸。いっせいに明かりが消えスチュワーデスの懐中電灯でタラップを降りる。
空港事務所では通訳のグエン・クイ・クイさんが花束持参で迎えてくれる。
紅河には舟橋がかかっている。
トンニャットホテルに到着。
清張氏に用意された豪華な部屋。
美しい食堂。中国風の栄養たっぷりの料理が並ぶ。
三月二十日(水曜)
空襲警報のサイレン。防空壕に入るがニ十分後に解除。
朝食はハルサメに似た植物料理。ブタの中国風料理が旨い。
対仏抵抗戦争以来二十年も続く戦時下にこれだけの豊富な食糧があるのが驚きだ。
農業生産は落ちるどころか絶えず上昇させているのだという。
続く