
日記だとわかりやすい。とにかく文章が読みやすい。
ネタバレします。
ハノイ日記
第一帖 戦争に適応する街ハノイ
(続き)
三月二十一日(木曜)
松本清張氏はベトナム文学芸術家協会副書記長バオ・ディン・ジアン氏と会見。
ベトナムでは1945年から二十年以上侵略者と抵抗者による銃声の絶えたことがないという。
ベトナム人は侵略者のアメリカを憎んでいる。子どもにもアメリカの憎しみを教えている。
ベトナムの芸術は外国の侵略に苦しんでいる人間、この侵略と戦っている人間を描写している。しかしその主人公は明るい。この戦争に必ず勝つという確信があるからだ。
北ベトナムでは女性も銃を持って反撃をする。
清張氏が食す料理を運んできた若い女性がいたのだが、空襲警報となれば彼女の指揮に従わねばならないと説明を受ける。その時彼女は民兵として銃を持ち敵機に立ち向かうのである。
解放軍は各地でアメリカ軍を混乱させた。アメリカ軍は解放軍に包囲されて恐怖している。
第二帖 抗戦の展示
三月二十二日(金曜)
清張氏日本で放送するTV番組のために清張氏が泊まっている部屋に江マリー・マッカーシー女史を呼んで撮影。取り留めのない話をしたという。
三月二十三日(土曜)
夜七時半からフランス人カメラマンが撮った記録映画を観る。
南ベトナムでのアメリカ兵の残虐行為。ベトコン捕虜への拷問が凄惨だった。ナパーム弾でやられた被害者。
第三帖 解放戦線ハノイ駐在代表と
三月二十四日(日曜)
空襲警報が続く。
三月二十五日(月曜)
南ベトナム解放民族戦線の代表に会いに行く。
朝日新聞をはじめ、世界のブルジョア新聞もアメリカの南ベトナムにおける失敗を暴露した。アメリカは原子爆弾を除くあらゆる近代兵器をベトナムに使用した。アメリカはベトナムに一日一億ドルを使っている。
彼らは最も才能のある将軍を派遣したが失敗した。
我々は戦うほど強くなる。
会談後、清張氏はホアピン省へ向かう。
清張氏は目を痛めていて充血しているのだが頼んだ目薬がまだ届かない。
ホアピン省の省都ホアピン市から一キロ離れた谷あいの「迎賓館」に案内される。フランス植民地時代外国人のために建てられた。
食堂だけが取り残され宿舎はその後にできた高床式の伝統的なものだった。
白い蚊帳だけが優雅である。
足の長い蚊がマラリア蚊の要で気持ちが悪い。
標高四百メートルの土地であるという。
第四帖 高原の少数民族
三月二十六日(火曜)
翌朝、八時に奥地に向けて出発。
昨夜は警報なく、ぐっすり眠れた。
空は相変わらず雲がたれ陰鬱である。が、雨は降らない。
うねうねとした坂を上る。
四十分ほどで高原へと出る。
海抜千二百メートルのこの高原を北の端に横切るまで一時間近くかかる。九州の耶馬渓に似ているらしい。
道路はいくつもの山腹をうがってできたものでこの地方の若者が二年間を費やし無償で労働についたという。一万の就役者の七割が女子青年だった。
車は少数民族の村に着いた。
かつては文盲がほとんどで医療設備もなく農業技術もなかったこの土地も改善されていったという。
このような場所もアメリカの爆撃が多いのだ。
三月二十七日(水曜)
ホアピン省農業中等学校を参観する。
タピオカが栽培されている。
第五帖 機関紙『ニャンザン』の編集長
三月二十八日(木曜)
午後三時よりニャンザン社にホアン・チュ編集長を訪ねる。
氏は北ベトナム労働党中央委員候補。
「佐藤内閣は東条政府と同一性格だ。
わたしたちはやむを得ず長期にわたって戦争をしてきた。
アメリカは朝鮮戦争では二百億ドル、ベトナムに三百億ドル使った。
国民のどの家族でも被害を受けないものはない。
ベトナム人は世界において最も平和を愛する国民だ。
しかしその平和とは人民が完全な独立の主人公となることだ。これは非常に謙遜な正当な希望である。
現在平和が実現しない原因はどこにあるか。考えてほしい。
アメリカは今ベトナムに封じ込まれている。われわれはアメリカが侵略をやめ軍隊を撤退させることを目的に北爆を無条件に停止するならいつでも話し合いに応じる。
日本軍の仏印進駐でも多くの悲惨な状況が作られわれわれも日本軍を攻撃したが日本の降伏後は仲良くなり親しくなったのだ。
三月二十九日(金曜)
ハノイ市内の爆撃跡を見る。
ホテルに戻り昼食後空襲警報。
夕方六時にハイフォンへ向かう。
第六帖 ジョンソン声明のハノイ
三月三十一日(日曜)
ベトナム日本友好協会会長チャン・ダン・チュエン氏を訪れる。
夜空襲警報が繰り返される。
四月一日(月曜)
午前十時過ぎマニラ放送が「ジョンソン次期大統領立候補とりやめと北爆の一方的停止」を伝える。
日本人の間では騒然となる。
今日から爆撃がない。嘘のようだ。
歴史的瞬間がだんだん身に食入ってくる。
ベトナムの人々は慎重である。「アメリカ人は狡猾だから油断はできない」
判っているのはベトナムが勝ち、アメリカが負けた、ということだけだ。
第七帖 対米回答直後に語るファン首相
四月三日(水曜)
世界中の予測に反して北ベトナムはアメリカに対し受諾声明を発表した。
四月四日(木曜)
松本清張はファン・バン・ドン首相と会見する。
受諾声明後初の外国人記者の会見となる。
会見後にクイさんは「なぜアメリカが原子爆弾を使った時のことを聞かなかったのですか」
清張氏はしまったと思いながらもその答えはわかっていると考えた。
もしアメリカがベトナムに原子爆弾を落としたらそれはたちまち第三次世界大戦になるに違いない。
アメリカは決してベトナムに原子爆弾を使用できない。首相はこう答えるに違いない。
四月五日(金曜)
午後四時半、トンニャットホテルを森本哲郎氏と共に出発。
クイさんとチン青年が花束を持って空港まで見送りに来てくれる。
感慨深くふたりはハノイに別れを告げた。
「赤旗・日曜版」
付 ハノイにはいるまで
松本清張は1967年末から68年一月十二日までキューバで開かれた世界文化会議に参加のためハバナに滞在した。帰国したのが一月十五日で届いていたのがハノイからの電報だった。
それは「貴下と森本哲郎氏とを1968年1月にハノイに招待する。出発日とビザ番号を通知されたし」というものであった。
帰国したばかりの清張氏は仕事の都合もあり、朝日新聞の森本哲郎氏にハノイとの電報交渉を任せ準備をしていくが結局二月二十五日羽田発のエールフランス機でプノンペンへ向かう。
プノンペンでビザをとりアンコールワットの見物にいく。
その後ICC機でハノイに向かって飛ぶはずがICC機はひどく古い代物でありさらに何度も悪天候で向かうことができなかったのは前述した。
後にハノイで松本清張は歴史的瞬間を目の当たりにするのだがこの時はじりじりと何もできない時間を過ごしている。
『ハノイで見たこと』というあまりにものんびりした何気ないエッセイ風タイトルのこの記録がまさかこんな内容だったとは私には思いもよらなかった。