ガエル記

散策

『天城越え』松本清張/松本清張全集4「黒い画集」より

1959年11月「サンデー毎日」(画像は映画より)

映画&ドラマは以前鑑賞済の有名な作品です。

なんとなくスティーヴン・キングにおける『スタンド・バイ・ミー』のような気がします。

むろんあの作品とはまったく違うのですが「十代に友だちがいなかった」松本清張の思春期物語だとこうなってしまうのです。

 

 

ネタバレします。

 

 

読んでみると驚くほどの短編だった。

この短い小説で、いや、だからこそあの美しいイメージの映画やドラマになってしまうのだろう。

清張自身を思わせる孤独な16歳の少年が主人公である。

以前、この小説は川端康成の『伊豆の踊子』に触発されて書かれたとどこかで読んだ。

それが冒頭ですでに書かれているのでおかしくなった。

それほど清張氏は『伊豆の踊子』に嫉妬というか反感を覚えたのだろう。

(私もまったく好きではないので清張氏に賛同する)

『伊豆の踊子』では高等学校の帽子に紺飛白の着物に袴学生カバンに朴歯の高下駄といういで立ちで二十歳の青年が天城越えをする。

出会うのは最初17歳に見えた14歳の踊子であった。

踊り子が天真爛漫に全裸で立つ姿を見て学生は「子供なんだ」とほっとする。

なにがなんだかよくわからないし学生が学生のくせにあちこちでふんだんに金を使うさまがむかつく小説である。そのくせ自分は非常に控えめだと自負している。

まあそういう気どりまで含めての名作なのだろうがいつ読んでも腹の立つ高等遊民の作品が『伊豆の踊子』ではないか。

 

松本清張がこの川端文学が名作とされていることに嫉みを覚えて反骨精神で本作を書いたのはもっともだと思われる。

舞台はあえて『伊豆の踊子』と同じ時期に設定されている。

主人公は16歳の鍛冶屋の倅であり生活は楽ではない。16歳だがすでに鍛冶屋として働いているために朝は五時半から起こされ眠くてたまらず家出を決意して天城越えをするのだ。

手持ちの金は十六銭。

『伊豆の踊子』の学生は最初の茶屋で五十銭も払っているがその三分の一にも満たない。茶屋の婆さんはその金に驚いて泣きそうになっているのを学生は迷惑に思っている、という描写である。温泉宿に次々と宿泊し旅芸人には二階から金を放ってやる。

 

しかし我らが主人公の鍛冶屋の倅は十六銭を帯に巻きつけ天城の山を越えたら自由な天地が広がっていると希望を抱いて歩き出す。

少年は菓子屋の男と出会い、十六銭の中から五銭を出してパンを食べ残りは十一銭になる。

次に呉服屋の三十男と出会い共に歩いていくと法被を着た大男を見て「ああいうのは流れ者だから気をつけなければいけない。悪いことをするのは、あの手合いだ」と教えられる。

この言葉が少年の行動に大きく作用してくるのだ。

ところが少年は一人ぼっちになるのが心細くて呉服屋に餅をご馳走して十銭を支払う羽目になる。残りは一銭だけとなってしまうのだ。

少年からおごると言ったとはいえ一番少年に悪いことをしたのはこの男なのである。

が、少年はそれに気づいていない。

心細い時にはデマを信じ余計な金を使ってしまうのだろう。

 

その後少年は22・3歳の美しい女性に出会う。

ここも『伊豆の踊子』との対比になっている。

『伊豆の踊子』では20歳の青年が14歳の童女と出会い処女性を感じて喜ぶ。

『天城越え』では16歳の少年が22・3歳の売春婦と出会い女性を感じてそこに愛情をもつのだ。

反論はあるにせよ『天城越え』の少年の心情の方がまっとうであると思う。

 

とはいえ松本清張は正義の人であってたとえまっとうであろうとも自分自身の姿であろうとも死ぬまで時効はない、という罰を主人公に与えるのだった。