1952年「東宝」
ネタバレします。
「お春」という女性をひとつの女性の理想もしくは「そういうもの」として描いたものなのだろうがその姿はあまりにも「気持ち悪い」のであった。
こういう女性がいないというのではない。
むしろ女性の在り方として在るといえばそうなんだろうけどすべての女性の形を集めて凝縮させて「これが女性」として語られるとなんだか不気味にしか見えないのである。
「お春」はしっかりした気性を持っているのにもかかわらずなぜかいちいち男の言いなりになってしまう。そしてそれを問い詰められるとむっとしてしまうのだけどどう見たってそう言われて仕方ない。
いい格好をやめるのができないのだがこれはむしろ男の生きざまなのであって女ではないような気もしてくる。
やはり男にとっての理想の女は男なんだろう。
女ではないのだ。
とはいえ「お春」が常に人に良い顔をしている様は女らしい、というより男女ともにそういう気取り屋なのだともいえる。
昨日松本清張原作で野村芳太郎監督作品『疑惑』のヒロイン鬼塚球磨子の生き方は「ゲイの基礎教養」という言説を見かけその理由が「球磨子は人に好かれようとしていないから」ということだったのだが本作の「お春」はその真逆であるのだ。
球磨子と春、という対称的な名前を持つ女性はその人格も真逆のようだ。
春の女らしさは鼻につく。春の生き方は観ていられない。
球磨子のようにありたいと思う。
本作は「このように生きてはならない」というか「こんな人生じゃつまんねえ」という見本のように思われる。自分の意志がまったくないのだから。