2026年「講談社」
「滋賀医科大学生母親殺害事件」
2020年12月、筆者は大阪拘留所を訪ねる。
そこで拘留されている34歳の女性に面会を求めた。
彼女は未決拘留者でかつ身柄を拘束する必要があるとして収容されている。実の母親を殺した殺人罪で起訴され大阪高裁での公判が継続中だった。
被告にとって赤の他人の面会は必ずしも応じられるものではない。期待はできないまま筆者は返事を待ちそれは叶えられた。
新型コロナウィルスの感染者数が更新し続けている時期であった。
面会時間は15分のみ。筆者は被告と話をした。
ネタバレします。
被告は「髙崎あかり」そして被害者である母親は「妙子」という仮名をつけられ本編はほとんど小説もしくは独白のように記されていく。
それは被告・あかりが実の母親から受け続けた教育虐待の詳細な記録であった。
母親・妙子は娘あかりをなんとしてでも医者にしようと決意し医大に入る事だけを目標とする。
奇妙に思うのは「ほんとうに医大に合格すること、そして医者になることが幸福なのか?」なのだが妙子は「幸福になるには医者になるしかない」と決めつけているのだ。
そして恐ろしいのは娘あかりの学習能力がまったくそこに達していないのが明確なのにも関わらず「頑張れば必ず夢はかなうのよ」「それができないのは怠けているから」と信じ切っていることであった。
そもそも「医者になれば幸福になれる」という根本からして疑問なのに何故母親妙子はそうだと信じているのだろう。
あかりの能力がまったくそこに至っていないのに「頑張ればできる」と罵倒し殴りつけ熱湯を浴びせ家から閉め出しだからと言って家出しようとすれば必ず見つけて連れ戻す、というこの暴力性はどこから生まれたのか。
正直に言うと私の興味はあかりよりも母親妙子の方にある。
しかしその本人はもう死んでしまったのでどうしようもない。
とはいえこの母親にそっくりな人物はこの世にあふれるほどいるようだ。
私としてはどうして母親・妙子が生まれたのかを知りたい。
これは先日観た映画『Pearl パール』にも言える。
この映画はほぼ『母という呪縛 娘という牢獄』そのままなのだ。
ここでも視点は娘の方だ。今まで観てきた読んできた作品はほぼ娘視点なのだが果たして母親側の視点の作品はあるのだろうか。
「虐待する親」に焦点を当てた作品は。
想像するにたぶんその「虐待する親」はかつて「虐待されたこども」に違いない。だからまたも「いや虐待される側じゃなく虐待する側の視点が欲しい」と言ってもそれもまた「虐待されたこども」であって、と繰り返されるのだろう。
虐待は循環していくものなのだと思う。
なので完全な「虐待のみの存在」はないのだ。
つまり愛情深く育てられた人間がいきなり虐待する人間にはなり得ないのではないか。
とすればあかりは将来どうなるのだろうか。
彼女は今服役中で数年すれば出所する。
おおよそ40代前半でもしかしたら結婚出産も可能だろうししなくても何らかの形で子供を育てることになるかもしれない。
その時彼女がこの「繰り返し」を断ち切ることができるのだろうか。
虐待を受けてそれを認識できた人は「自分もやってしまうかもしれないから結婚も出産も育児もしない」ということがよくある。
それほどこの繰り返しを断ち切るのは困難なのだろう。
この事件を知った人、この本を読んだ人の多くは母親ではなく娘に同情的なようだ。
むろん私もそうだが。
それほど「実の親の子どもへの虐待」の罪深さを皆が知っているのだ。
人間の本能にもかかわる問題とも思える。
しかしそれを手助けする方法はいろいろとあるだろう。
今はまだそれらの援助が足りているとは思えない。
だが、多くの人間がやっと認識してきたこの「虐待の連鎖」問題解決は難しいが少しずつ進んでいると信じたい。