ガエル記

散策

『国宝』李相日

2025年「東宝」

映画情報を知ってすぐ原作小説を読み配信を待っていました。

アマゾンプライムで鑑賞。

 

 

ネタバレします。

 

 

原作小説で内容は掴んでいたので非常にわかりやすく鑑賞できた。

なので情報なしで鑑賞する感想はできない。

当時「この映画を好きになった人は是非『覇王別姫』も観てください」というレビューがよくあった。小説体験のみとしては「違うんじゃ」と思っていたが映画を観るとこちらは確かに『覇王別姫』を下敷きにしているのがわかり納得した。

 

『国宝』小説から重ねたのはむしろ少年マンガの世界である。一番近いのは『あしたのジョー』ではないか。

ふたりの関係がジョーと力石を感じたし主人公がドサ回りをするところや思いを寄せてくれている女性を手放してしまうのも重なる。

小説では最後主人公が狂気の世界へ行ってしまうのも同じイメージなのだ。

 

一方、映画の『国宝』からはそうしたイメージはきれいさっぱりなくなっていた。

少年マンガとも『あしたのジョー』とも重ならない。

さらに言えば原作小説で感じた「これ、映画にしたらヤバいのでは」と思った箇所はすべて気にならないよう改良されていたのには驚いた。ここまで消毒できるのか。

小説で「ヤバかった」のは女性の描き方だ。

作家・吉田修二氏は自ら長崎出身のためもあって九州の男尊女卑の描写が的確だった。主人公・喜久雄は少年期女性に売春させることをなんとも思っておらず女衒を行っていてその後の恋人の扱いも冷酷である。愛情を与えなかった娘からは罵られる。喜久雄にとっては男とのつき合いだけが重要なのである。

物語自体主に昭和期を舞台にしていてその考え方はぶれていない。

この描写が現在の鑑賞に耐えられるものだろうか、と懸念していたがその嫌悪感は見事なまでに削ぎ落されていた。

その上で男たちのつながりが描かれ女性たちはあくまでも傍観者として表現される。

映画鑑賞中に小説で感じた女性軽視はまったく感じなかった。これは脚本執筆の奥寺佐渡子氏の手腕であろう。

あの長い物語と多くの登場者をすっきりとまとめ上げてしまった辣腕である。

 

その辣腕のおかげで小説で私が好きだった喜久雄の幼馴染で子分的存在だった男がいなくなってしまったのだがそのおもかげは竹野という三友の社員に受け継がれたのかなと思う。

意地悪な先輩女形も観たかったがこれも歌舞伎のイメージを悪くすると判断されたのかもしれない。

あの原作小説をよくぞここまで清潔に整えて製作したものだという感心に尽きるのである。

それなくしてはここまでの評価と集客は望めなかったはずだ。

今現在の人々の価値観がよくわかる。

日本映画は汚くおぞましいモノが大好きだという特性がある。そこを取り除かなければ集客は見込めないと今回はっきりとわかったはずだけど「なにが汚くおぞましいものなのか」を分別できないと結局作ることはできないし、やっぱり汚くおぞましいものが好きだという感性は失われないのだろうなとは思っている。

 

さて書きたいことはおおよそ書いた気がする。

『国宝』の原作小説を読んで映画を観て「ノイズ」と言われるもの、もしくは汚いものがすっきりと無くなったことに驚いた。その技巧に感心する。

 

私が知りたかったのは「どうして喜久雄は女形を演じたかったのか」なのだが結局そこはわからなかった。

ぼんやり思うのは喜久雄はそもそも女性が嫌いでそれは嫌悪というところまで行きついているのだろうな、という感覚なのだ。

女形を題材にしている作品なのだが小説でも映画でも彼らが彼女らが「女形」をどう思って考えているのかは微塵も描かれていない。

ただそういうものがある、という描写だけなのだ。

「男が女形をやりたいと思う」のはむしろ当然のことのように表現されていて何の疑問も当惑も躊躇いもない。

途中で女装している喜久雄に暴力を振るう青年たちが登場するが彼らは明らかに異常者として評価される。

「女形である男」こそが正常なのだ。そして女性はその男に付き添うだけだ。

陳凱歌『覇王別姫』では蝶衣はやむなく女形の世界へと入らされる。

激しい折檻を受けても何度も「男として生を受け」と言ってしまうというのが彼のアイデンティティでありその中で彼は劇中の相方である小楼に恋心を持ってしまう。

その表現は私にはとても分かりやすかったが本作の喜久雄は一体何者なのか、さっぱりわからないのだ。たぶんそのわからなさが日本的なのかもしれない。

いつもなにが真実なのかわからないのだから。