1951年「20世紀フォックス」
昨日拙ブログの2024年3月2日記事”『マーズ』 横山光輝”にX^2さんから
「「マーズ」と海外SFとの関係でいうと「幼年期の終わり」よりむしろ「地球の静止する日」ではないでしょうか。」
というコメントを頂きました。
1951年度版映画『地球の静止する日』は調べたら遅くとも2023年5月には観ているのでこの記事の時は知っているはずですがその時は『幼年期の終り』にはまっていて言いたかっただけではないかと思います。
しかも現在すっかり『地球の静止する日』を忘れてしまっていたので(ぼんやり幾つかの場面を思い出す)再鑑賞してみました。
ネタバレします。
いやあ、面白かった(笑)
勿論観始めたらさすがに「そうそう、そうだった」と思い出していったのだけど。
以前私がこの映画と重ねたのは横山光輝『マーズ』ではなくスピルバーグ『未知との遭遇』だった。
宇宙人とのコンタクト成功者として本作では未亡人とその息子、『未知との』では家族に逃げられる若い父親と未亡人とその息子が描かれる。
未亡人とその息子は同じなのにスピルバーグ版では別の父親である男が主人公になるわけだ。
ところが横山『マーズ』ではこの宇宙人とコンタクトを成功する地球人が明確に存在しない。
マーズが最初保護された家の少女、そして若い新聞記者がその可能性を持っていたが『地球』や『未知との』のように最後までその関係性を保ちえない。
かくしてマーズは地球人に絶望してしまう、というプロットなので私はうっかり本作と『マーズ』の相似点に気付かなかったのだろう。
意識して鑑賞していくと「確かに」と思う部分がある。
特に「ゴート」の無機質に直立するイメージは「ガイアー」の立ち方と同じだしクラトゥの卓越した能力と物おじしない毅然とした態度はマーズと重なる。
しかしやはりすべてを覆してしまうのは横山光輝が「地球人を信頼していない」思想にあるように思える。「地球人は結局戦争をしてしまう馬鹿な種族なのだ」と横山氏は繰り返し描き続けてきたからだ。
『マーズ』が悲劇なのに比べ『地球の静止する日』『未知との遭遇』がハッピーエンドするのは”映画”というジャンルのせいではないかと思う。
”映画”ではあまり悲惨な結末を選べないのだ。
ところで監督のロバート・ワイズという名前を私は記憶していなかったのだけどこの監督は1961年版『ウエスト・サイド物語』と『サウンド・オブ・ミュージック』を作った人なのだと今頃知って驚いた。
このふたつの映画についていえば私は『ウエスト・サイド物語』が嫌いで『サウンド・オブ・ミュージック』が好きである。
同じ監督なのにこうも違う印象と反応をしていたのだとこれも驚いた。
残念なことに『ウェスト・サイド物語』が好きになれなかったのでこれもよくわからないのだがとにかく「対立して会話できないふたつの種族」を描いたものであるには違いない。
『サウンド・オブ・ミュージック』ではこちらも戦争時に相いれることができない状況に立った家族が逃げ延びていく物語である。
こうして並べてみると全然違う話のようでいて『地球の静止する日』『ウェスト・サイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』はつながっているのだ。
突然のX^2さんのコメントから最近の路線とはちょっと違う寄り道をしばらくしてみることになりそうである。
ありがとうございます。
しかしこの映画のポスター(?)ヒドイ。
本作のヒロインとは全然違うビジュアルである。
このシーンがなかったわけではないが「切り取り」すぎる。