ガエル記

散策

『平家物語』横山光輝 その3

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

少し話が戻る。

以仁親王(もちひとしんのう)

 

源三位入道頼政(げんさんみにゅうどうよりまさ)

この顔、横山マンガの晩年によく出てくる。良いキャラです。

 

驕る平家と戦おうという声が上がり僧侶が立ち上がるが「格下の寺と同格になるのは我慢ならん」というようなことで破綻する。

清盛は比叡山の僧侶に絶大な寄進をして反逆を阻止するがこの寄進の品を僧侶たちが奪い合う。

以仁親王宇治川の対岸にある平等院に入る。

清盛は四男知盛を総大将にして二万八千騎を率いさせた。

 

結果だけを書くと武力にものをいう平家は反逆者を討ちとってしまうがその抵抗ぶりが面白い。横山氏はどちらの戦いぶりも見事と描いている。

こうした戦法に興味があれば面白いがドラマはないのでそこに評価があるかもしれない。

 

その後清盛は福原に遷都する。

そしてかつて清盛が母に請われ命を助けた源頼朝が謀叛を起こす。

 

亡き重盛の嫡男23歳の維盛が総大将となり七万の兵を率いた。

年若い維盛は東国に詳しい斉藤実盛に源氏の兵の戦いぶりを聞く。

実盛は東国には自分よりも強弓を引くものが大勢いることを話す。親が討たれようが子が討たれようがその屍を乗り越えて戦うともいう。

実盛は平家の諸将を引き締めるために話したのだがその言葉は諸将に恐怖を与える。

 

また源氏の軍が二十万と聞き無数の水軍を見てさらに恐れをなす。

平家は生活の豊かさを得て昔の猛々しさを失っており一戦も交えぬまま逃げ帰ってしまう。清盛初めての敗戦であった。

 

これ以降平家は下降線をたどっていく。

やっと福原に落ち着いてきたものの再び京に戻ることとなってしまう。

奈良興福寺の僧侶が平家打倒に蜂起し清盛はこれを討つ。

 

が、清盛は病に倒れ高熱を出して死去。

福原をこの国の一大交易港として宋と交易する夢はむなしく終わった。

 

清盛亡き後の平家は滅亡を加速していく。

源氏側に木曽義仲の活躍が目覚ましいものとなり平家を追い詰めていく。

平家は都落ちするしかない。後白河法皇鞍馬寺へと身を隠す。

平家は二十年にわたって栄華を誇った京の住居に火をつけた。

六歳の安徳天皇と共に平家一門はいったん福原まで移動するが三年が経過した福原はすでに廃墟となっていた。

平家は一門は一晩そこに泊まり船で太宰府へと移動する。

 

一方木曽義仲は堂々と京の都へと入り後白河法皇から称号と領地を与えられる。

だが勝利軍は京で略奪を始め人々は「平家の方が良かった」と嘆く。

後白河法皇は義仲を平家打倒に追いやりたかったが帝を抱える平家を討つことは朝敵になると同意義であり武士の義仲が嫌がることは予測できた。

後白河法皇は四宮を帝にしてしまった。これで帝はふたりとなってしまったのだ。

 

このことで九州で平家を庇護している緒形三郎惟義が平家打倒を命じられてしまう。法王が抱える帝に逆らえなくなったのだ。

かつては重盛の家来だった惟義は平家一門に九州より立ち去ってくだされというしかなかった。

一度は反撃を起こした平家だが多勢に無勢。ついには箱崎の津まで逃げ落ちる。

平家は海上を漂流し続けた。どこかに上陸しようとするとその度に敵が来るという知らせを受け海上へ逃げるしかなかった。

これに絶望した重盛の三男清経が笛を吹き海に身を投げた。

 

しかし平家は紀伊の刑部大夫道資からの支援を受け讃岐の屋島で船を御所として地盤を作った。

ここに都の義仲、東の頼朝、西の平家と天下は三つの勢力に分かれた。

 

義仲は義清を総大将として平家打倒を命じたが海上の戦いで平家は力を盛り返し平家は義仲に勝利したのだった。

 

義仲は法王に「自分を征夷大将軍にしてほしい。そうすれば平家などたちどころに滅ぼせる」と豪語したが後白河法皇は義仲の言葉に激怒し僧兵らを決起させ義仲打倒に転じる。(なんなのこれ)

これに義仲も怒り義仲軍と法王の僧侶軍の戦いが始まる。

が所詮僧兵が強者の義仲軍に勝てるはずもなく法王・天皇・公卿・殿上人が幽閉された。

ここで義仲は「平家と手を組み頼朝を打倒する」と言い出す。義仲の父は頼朝の兄・義平に討たれたその仇討ちをして源氏の本流になることを望んだのだ。

しかし平家は義仲に降伏せよと返した。

義仲はこの返答に怒った。

 

東国でこの様子を聞いた頼朝は義仲打倒を命じた。(みんな平家そっちのけだ)

ついに木曽義仲は討ちとられる。

義経は法王の命を受けて平家打倒へと進む。

あの有名な鵯越の坂落としを経て義経は平家を追い込んでいく。

 

そして私がもっとも読みたかった熊谷次郎直実の話が描かれる。

源氏軍の直実は負傷した息子を案じながら手柄首を探して海岸を走っていた。そこへ見事な鎧兜をつけた武者を見かけ勝負を挑む。

その平家武者は振りむき直実の真っ向勝負を受ける。が、組みしいた相手は少年だった。我が息子と同じ年ごろの武者を見て直実の心は怯む。

息子の怪我だけでも心配なのに我が子が死んだとなればこの少年の父親はどれほど悲しむだろうか。

が少年は「合戦に加わった以上討死は覚悟の上」という。

直実は味方が近づいてきたのを見て「同じ事なら」と少年の首をとり後生の供養をつかまつろうと討ち取った。

その少年は清盛の異母弟経銛の息子敦盛である。

 

清盛の長男重盛の子・維盛は出家し僧侶となり海に身を投じた。これに若きふたりの供も殉死した。

 

義経は死をも恐れぬ果敢な働きをするがこれが帰って頼朝の不審を買うのだ。

 

ここでも有名な那須与一のエピソードが語られるが風流というべきか平家の暢気さに驚く。

同時に源氏の惨たらしさを見る。

 

義経はますます力を強くし頼朝の不興も増大していく。

 

こうして平家は滅亡した。

建礼門院徳子は尼となって平家の人々の菩提を弔った。

平家滅亡の四か月後頼朝は義経追討令を出し鎌倉時代を築く。