ガエル記

散策

『ラースと、その彼女』クレイグ・ギレスピー

2007年公開 「MGM」配給

「リアルドールを好きになった青年の話」と説明されているのを見て、しかもその青年がライアン・ゴズリングというのはむしろ引いてしまいました。

「リアルドール」というのは想像通りセックスドールなのでありその目的で販売されているのをライアン演じるラースは購入するのですが・・・・まさかその話でこんなに感動して涙ぐむまでになってしまうとは・・・思いもしませんでした。

 

ところでいつも問題になるタイトル翻訳ですが今回は日本語タイトル、非常に良いのではないでしょうか。日本語らしい上に的確です。

 

 

 

ネタバレします。

 

 

昨日は『ユー・ガット・メール』で「どこが感動なんだ。屈辱だ」と怒りまくったのにその翌日に「リアルドール」を見て感激で目を潤ませるとは。

人間の感性とはなんなのだろうか。

 

 

アメリカの片田舎。

兄夫婦が住む母屋の横にあるガレージを改装してひとり住んでいるラースは真面目に働いている好青年だがただひとつ「彼女」がいなかった。

 

「彼女がいない」というだけでここまでおせっかいを焼くものか?とも思うのだけど兄嫁のカリンは義弟がいつもひとりぼっちなのが心配でたまらない。

兄は「あいつはそういうヤツなんだよ」と気にしていないが。

しかしそんな義姉のお節介がラースのスイッチを入れたのではあるのだろう。

ただしそのスイッチは「リアルドール(セックスドール)」を購入するという展開を産んでしまう。

ここからも不思議な展開である。

「田舎の人間はお節介だから」という説明でいいのだろうか。

ラースがリアルドールを購入したことはまたたくまに田舎町に広がり誰もが知るところとなる。

むろん皆はそのことを嘲笑するわけだが同時にそんなラースの行動を見守り話を合わせてあげようとする人たちもいる。

例えばラースの兄ガスは弟の気が狂ったとうんざりしリアルドール・ビアンカ(彼女はブラジルとデンマークのハーフ)の世話をするのも投げやりだ。まあ普通そうだ。

が、義姉カリンはラースと彼女の行く末を見守る。

田舎町の男性たちは遠巻きにして笑っているばかりだが女性たちは新しい入居者ビアンカに仕事を頼んだり美容室でヘアスタイルを変えてあげたりする。

彼女は町の住人になったのだ。

 

観ていくと時々ビアンカがほんとうの女性のように見えたりしてきて驚く。

一時的に女優さんに入れ替わったりしてないか。

こんなにうまくいくのならビアンカがいたっていいじゃないかと思えてきた。確かにビアンカは町の役に立っている。

ほんとうの人間だってこううまくいかないかもしれないじゃないか。

 

ところが今度はラース自身が変化していく。

ビアンカが恋人である自分をないがしろにしていると喧嘩したりしはじめるのだ。

「ビアンカにも自由に生きる権利があるのよ。あなたはビアンカを束縛しているわ」と叱られてしまうラース。

ほんとうにそのとおりだ。

 

ラースにはいつも声をかけてくれる女性がいた。

これまでラースにとってその女性はうとましいものでしかなかったのだがラースは次第にその女性が気になってくる。

そしてついにラースはビアンカとの別れを決意するのだ。

 

 

さてこの映画、非常に内気でコミュ障の日本人にとってはややうざい内容なのかもしれない。

むしろこのままビアンカと暮らしました、という話にしてほしい人もいるのではないか。

とはいえこの作品は「ラースが選んだ」世界として描かれている。

町の人々がビアンカを新しい仲間として受け入れていく姿は決して彼女を単なる人形として蔑視してはいない。

最初は戸惑いながらも次第にビアンカを好きになっていく、という物語になっているからだ。

ビアンカの扱いにも撮影にもきちんとした敬意が感じられる。

素晴らしい映画作品だった。

 

 

少し前に私はライアン・ゴズリング作品鑑賞踏破をやっていてその時、観れなかったのがこの作品だった。

今回気づいて鑑賞できてうれしい。

ゴズリング作品中でも屈指の名作だった。とてもよかった。

 

 

 

『ユー・ガット・メール』ノーラ・エフロン

1998年12月公開 「ワーナー・ブラザース」配給

ものすごく話題になった映画だけど初鑑賞です。

Xで見かけて(Xで見かけて鑑賞するのが定番となってしまった)今更気になり観てみました。

 

 

 

ネタバレします。

 

 

昨日の韓国映画『ビニールハウス』との差異が激しすぎる。

だが内容的にはこちらの方が酷いとまで思えてしまう。

 

果たしてこの映画はなにを意味しているのだろうか。

 

舞台はニューヨークの街角にある小さな本屋。

母が育て上げた思い入れ深い小さな本屋を引き継いで経営する女性キャスリーン・ケリーはやがて娘にも受け継がせたい(結婚もしていなければ娘もいないが)と夢みていた。

その近所に大型ディスカウント書店が進出してきて小さな本屋は経営危機に陥る。

キャスリーンの楽しみはノートパソコンで見知らぬ男友だちとメールのやり取りをすることだったのだが実はその相手がその大型ディスカウント書店のオーナーであることを彼女は知らず彼もまた自分がメール友達を苦しめているとは気づいていなかった。

 

軽快で辛辣な台詞のやり取りは楽しくなくはないが結局大型書店経営者ジョー・フォックスは小さな街角の本屋を閉店させてしまうのだ。

キャスリーンは母の店を潰したことで落ち込むものの新しい道を歩み始める。

ジョー・フォックスは先にメル友が彼女だと気づき相変わらず辛辣な対応をしながらも次第に彼女に惹かれていき恋をする。

そしてラストにはキャスリーンも自分を励まし助言をし続けてくれたメル友こそがジョー・フォックスだと気づいてすべてを許し新しい恋を受け入れるのである。

 

この物語をすんなり受け入れ「なんてステキなラブコメ」と思えてしまう感性が謎である。

今回思い重ねたのは『ちいかわ』ではなく『天幕のジャードゥガル』である。自分の国を略奪し奥様を殺したモンゴル帝国に復讐を誓ってほしい。

キャスリーンはなぜこの男を許してしまったんだろう。

私には数日後に彼女が後悔し必ずやこの男を滅ぼすと立ち上がってほしい。

 

いや、もう戦うこと自体が嫌になって田舎へと引っ越してもいい。

ニューヨークなんかではない小さな町で同じように本屋を開いてもいい。

違う仕事をしてもいい。

本屋は結局amazonに潰されてしまうかもしれないから別の仕事にしたほうが懸命かもしれない。

だがこの男、トム・ハンクス演じるジョー・フォックスと恋人関係になるのだけはごめんである。

なぜ彼女はこの男を好きなんぞなれるのか。

それは屈辱である。自分自身を失うことだとしか思えない。

 

この作品の何が良いのか、理解できない。

ニューヨークという場所に住むとこういう思考回路になってしまうのか。

であるならニューヨークになぞ住むのはまっぴらである。

住まないからよかったよ。

とんとんと話が進んでしまうのもまるで心が殺されていくようだ。

以前恋したはずの相手のことはもうすっかりどうでもよくなってしまっている主人公たち。いったいきみたちはなんのために生きているんだ。

どうせまたすぐにその新しい相手もどうでもよくなるんだろう。

こんな虚しい悲しい話はない。

そういう皮肉な物語ということなのか。

 

アメリカ映画というのは本当に男本位なのだとここでも確信させられる。

 

 

『ビニールハウス』イ・ソルヒ

2022年公開 

この映画もXで「こちらのほうが『ちいかわ』じゃない?」という意見を見かけて観てしまいました。

最近は韓国映画から離れてしまっていたので何の知識もなく鑑賞しました。

 

 

 

ネタバレします。

 

 

確かに。

『殺人の追憶』よりもこちらのほうが『ちいかわ』じゃない?の意見に納得だった。

 

極端なジェンダー論を語るのは神経に触ると覚悟の上で言えば「男性的作品」と「女性的作品」が存在する。

とはいえ世界の作品はこれまでほとんど「男性的作品」で占められていた。

「女性的作品」は必ず「内容がない」「事件がない」「解決がない」などと「男性的作品」と比較され「中身が薄い」と笑われてきた。

「男性的作品」とは暴力が主体であり暴力的に問題を解決してしまうものだと仮定する。

それならば「女性的作品」は暴力があってもそれを解決することができない作品なのだと思っている。

『ちいかわ』も本作もどちらにも暴力が存在するがそれを解決することはできない。

なぜなら世界は解決することなどできないからだ。

 

鑑賞した後で監督のイ・ソルヒは女性だと知った。

「やはりそうなのか」とも納得した。

本作はかなり強い暴力が描かれるが世界は一向に改善しない。

『ちいかわ 人魚の島のひみつ』でも語られた東洋的な思想「因果応報」がここでも描かれる。

正義の味方が”悪の大王を”成敗しすべてが幸福になる世界は存在しないのだ。

 

主人公女性ムンジョンは黒いビニールハウスに住んでいる。

一人息子は少年院にいて彼女の小さな望みは新しい家を見つけその息子と一緒に暮らすことだ。

彼女は裕福な老夫婦の介添えをするのが仕事だ。

その妻は認知症のせいもあって介護するムンジョンに酷い反抗をしては「殺すつもりか」と罵る。

夫は優しい人柄だが加齢のせいで盲目となっていた。

辛い仕事ではあるがそこでの報酬がムンジョンの新居と息子との暮らしの支えなのだ。

ただ息子は母との暮らしに躊躇いを見せていた。

 

そんなある日、認知症の奥様が入浴後突然ムンジョンにおそいかかってきた。

跳ねのけた瞬間奥様は床に頭を打ちつけ死んでしまう。

 

もちろんここでムンジョンがとるべき行動はすぐに警察そして救急車をよぶことだったはずだ。

ところがそこに息子から電話がかかってきて「やっぱり少年院を出たらお母さんと一緒に暮らしたい」と言ってくれたのだ。

ムンジョンはここで「見つかったら駄目だ」という判断をしてしまう。

彼女はこの事故を隠し通そうと覚悟した。

 

後はもうどうすれば隠し通せるかという地獄の道をひた走ることになる。

そして最後、彼女に下された「罰」はただひとつの希望である息子を自ら死なせてしまうというものだった。

 

ストーリーだけを追えばそこまで斬新なものではないのかもしれない。

しかし演出と構成をどのように見せるかが今まで見てきた映画とは違うとはっきり思える。

重く暗いものでありながら観ていく楽しさがある。

韓国映画にはこれまでも何度も衝撃を受けて来たけれどこの良質さに唸ってしまう。

悲惨な映画を楽しく観るのは正しいのかどうか。

しかしここにこの映画こそ『ちいかわ』に似ているという意味があるようにも思える。

 

この映画では警察がまったく信用されていない。

そして『ちいかわ』には警察がいない。



『殺人の追憶』ポン・ジュノ 「UーNEXT配信最終日」

ポスター画像

2003年公開 「CJエンタテインメント」配給

もう数えきれないほど観返した映画です。韓国で『ちいかわ人魚の島のひみつ』が公開され「殺人の追憶を思い出す」とコメントされたのを見かけてまた観たくなりました。

 

 

ネタバレします。

 

 

何度観返してもその鮮烈さに見入ってしまう。

ポン・ジュノ監督34歳当時、長編映画二作目ということもあって若々しさもある。ソン・ガンホも若い。

若い女性ばかりを狙う猟奇的な連続殺人事件という題材。

1980年代韓国の田舎の粗野で荒々しい人々の振る舞いを延々と見させられる。

ソン・ガンホ演じるパク・トゥマンはじめ田舎刑事たちの捜査はあまりにもお粗末でしかも残酷だ。

首都ソウル市警から派遣されたソ・テユンは彼らにあきれながらも捜査を続けていく。

彼の必死の捜索で犯人と思しき人物を追い詰めるもアメリカへ送ったDNA鑑定は「犯人とは断定できない」というものだった。

 

二十年後、パク・トゥマンは警察を辞めセールスマンとなり今やふたりの子どももいる幸せな家庭を持っている。

仕事の途中で彼はかつての事件現場へと向かいそこで小学生の女児から「この前も同じ場所を見ていたおじさんがいた」と聞く。

その言葉は犯人がまだ存在しているのだと思わせた。

 

世界に「殺人」という犯罪が行われていながらそれをどうすることもできないという絶望感がある。(むろん「戦争」というような大きな殺人さえもある)

『ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観た人がこの映画を思い出すのは凄く良くわかる。

人間にできることはわずかなのだ。

 

これからも何度も折に触れて観なおすだろう。

 

私はDVDも持っているのでなんの心配もないがUーNEXT配信は2026年10月2日までのようである。

 

 

『TAR/ター』トッド・フィールド その2

二回目鑑賞しました。

 

 

ネタバレします。

 

 

昨今の映画では「ジェンダー」そして「ハラスメント」についてが様々に描かれている。

それらを観るたびに何かいつも苛立ちのようなものを覚えていた。

ちょうどこの作品の前回に観た同じくケイト・ブランシェット主演の『ギフト』もまた同じ主題を描いていて私は記憶を失ってしまうほど「むかつく何か」を感じていたのだが本作はそういう「むかつき」がなかったのだ。

 

とはいえ本作の主人公リディア・ターは「むかつき」がないどころか「むかつき」のかたまりのような女性である。

それが逆に「むかつき」を起こさせなかったという奇妙な体験をしてしまった。

 

 

さていったい何が私に繰り返し「むかつき」を怯えさせていたのか。

 

この物語の主人公は今までの「優秀な白人”男性”」ではなく「優秀な白人”女性”」に代わっている。

しかも同性愛者である。

今や人類の最高位に座るのはストレートな白人男性からレスビアンである白人女性に代わったのだろう。もう少し言えば同性愛黒人女性にできればもっと良かったのかもしれないが、現在ではそこまで行くのは無理だったのかもしれない。やがてできるだろうが。

 

レスビアン白人女性で優秀なクラシック音楽指揮者であるターは現在世界の頂点に立つ人間だ。

しかもベジタリアンでもある。上質なスーツを身にまといお洒落な家に住み同じ音楽を愛するパートナーがいる。

白人男性は皆彼女を敬い丁重な態度で話す。

前回の『ギフト』でケイト演じるアニーが受けた男性たちからの蔑みの視線や屈辱的な暴力はない。

リディアは世界に君臨している。

同時に彼女はこれまでの白人男性が行ってきていた政治手腕を振るっていく。

彼女自身は「自分は正しいことをしている」と信じ切っている。

間違った考えを持った若い音大生を罵りそのプライドを叩き折る。

長い間彼女を慕い共に歩んでいた仲間たちを次々と「これが正しいから」と切り捨てていく。

そこには自分の性指向も含まれている。

長い間男性が当たり前ののように行ってきたことである。

それを女性のリディアもまた行う。

権力を持った人間なら人種も性別も関係ないのだとこの作品は語る。

ケイト・ブランシェット演じるターは悪としてあまりに素晴らしい。

 

リディア・ターは驕り高ぶり告発され周囲の総ての男女から背を向けられる。

彼女は頂点の座から降ろされるがスマートに従いはしない。

アパート内でアコーディオンをかき鳴らして大声でわめき、そして自分の代わりとなった指揮者を引きずり落としその場所に残ろうとする。

だがそれこそがターが他人にしてきた行いの報いである。

 

リディアはやむなく東南アジアに居場所を求めそこで”楽しく”ゲーム音楽”の指揮棒を振る。

さてターはついに自分の存在を見つめなおせるのだろうか。

 

それは判らない。

 

考えようによっては彼女はそこで純粋に音楽の良さに気づき東南アジアの生活に意義を見出せるかもしれない。私は東南アジアのあの雰囲気に安らぎと美を感じたのだけど。

だけど果たして”ター”はそんな女性だろうか。彼女は気づけるだろうか。

ここにこそ幸福があるのだと。

私は心もとない気もする。

でも願ってもいる。

 

 

いじわるだなあ。

 

 

 

『TAR/ター』トッド・フィールド

2022年10月公開 フォーカス・フィーチャーズ配給

これまで何度か観ようとしてなぜか指を動かさず今回初めて鑑賞しました。

ちょっとこれは凄い映画だと今頃になって衝撃を受けています。

 

さすがにこれはただ一度観ただけでは理解できた気がしません。

何度か観てみたい。

 

今言えるのは気になる作品だということ。

 

 

 

『ギフト』サム・ライミ

2000年12月公開 パラマウント・クラシックス配給

以前鑑賞していて「凄い映画だった」という評価を持っているのにもかかわらずなぜか内容をまったく覚えておらず「記憶を消したかったのか」と訝るものの気になって再鑑賞しました。

 

 

ネタバレします。

 

 

結果「確かにこの内容では記憶を消したくなる」だった。

 

実はジェシカが梢に揺蕩っている場面だけ記憶に残っていてずっと怖かったのだがこれで意味がわかったのでほっとしたところだ。

主役がケイト・ブランシェットだということもキアヌー・リーブス、ヒラリー・スワンク、グレッグ・キニアなどそうそうたる出演陣なのだがなにも覚えていなかった。

なのに「おもしろい映画だった」という評価だけしているのも奇妙である。

 

記憶を消したくなる理由の一つはこの映画、かなりストレス量が高い。

ケイト・ブランシェット演じる主人公アニーは三人の幼い息子を育てているシングルマザーなのだが生計を”占い”によってたてている。

とはいえ州の法律で「占いによって報酬を得てはならない」らしくわずかな”お礼”をもらうことでぎりぎりの生活しかできない。

しかも「胡散臭い占いをしている」ことで魔女呼ばわりをされている。若い女性の失踪事件に貢献するため占いをしても警察からは罵られ裁判でもずっと嘲笑されている。しかもこの舞台設定は現在(西暦2000年当時)であって昔話ではないらしい。

アニーは美人で体格も堂々としているのにもかかわらず女性は力なき存在としてしか認知されておらず映画の中の女性たちは常に男性たちの威圧感に怯えているように見える。

ジョージアというアメリカ南部では現在でもあまり変わらないのだろうか。

こうした性差別描写と超能力への蔑視を露わにしているのが精神的にきつすぎて映画の内容を記憶に残せなかったようだ。

 

今観てみるとストレスは相変わらず強く感じるもののその表現も含めてやっぱりおもしろい映画だったと評価できる。

ただしまた記憶を失ってしまうような予感もある。

 

いったいなんなんだろう、このきつさは。

超能力を持ちながらも最愛の夫を死なせてしまったアニー。

せめて他の場所へ移動すればよかったのでは、とも思うのだが彼女は夫の墓の近くにある家に留まる。

彼女はカードを使う占いをして同じように弱い人々を助けている。

夫から日常的に暴力を受けながらも離れきれずにいる妻。

幼い頃に実の父から性暴力を受け精神を病んだ青年。

そして妻に暴力を振るい続けている夫も婚約者を殺害してしまう小学校教師も田舎に住む弱い人々なのだ。

そうした負の連鎖のような田舎社会の在り方があまりにも怖ろしくてメンタルにきてしまう。

 

しかし今回再鑑賞してほんとによかった。

みんなが感動するのはリビシ演じるバディであるに違いない。

精神を病んでいる救いのない彼だけが唯一アニーを救ってくれた。

なんとなく『アラバマ物語』不気味な隣人ブーを思い出す。

 

しつこいが本作を観ていてもどうしても『ちいかわ』と重ねてしまう。

現在なのに遠い昔のような社会。

都会からは遮断された場所。

弱き住人達。

そんな世界だからだろう。

 

長年謎だったアメリカ南部の樹木からしだれている何かが「スパニッシュ・モス」だと知る。あれを観たら「アメリカ南部」だとわかるね。