ガエル記

散策

『ルックバック』藤本タツキ

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チェンソーマン』の藤本タツキ、と紹介されていますが実は『チェンソーマン』未読でその前の『ファイアパンチ』を少しだけ読んで「うまいなあ」と感じていた(が続きは未読)状態の私が読んでの感想になります。

 

ただ今大方で絶賛中話題の読み切りマンガです。そして多くの人が書いているように「143ページもあるのに一気に読んでしまった。おもしろかった」という感想を私もまったく同じように感じてしまっておしまい、となりそうなのですがそうはいかないところがまたこの作家作品の凄いところなのかもしれません。

 

 

ではネタバレしますのでご注意を。

作品一気に読んでから読んでくださるとうれしいです。

 

 

 

実を言うと上に「一気に読んでしまった。おもしろかった」と書いたのは感想の省略になります。

略さずに書くと

「読み始め一気に惹きこまれすげえええと読み続けたら京本が死んだと描かれて一気に醒めてこれだめだと落ち込んでなんとか読み終わったけどもう一度読んでやっぱりこの巧さは特別だしおもしろい(けどちょっとなんだかな)」

となります。

 

作品後半で主要人物を死なせてしまう、のはいかにもお涙誘導作品としてマイナス80点でたとえ他の部分が良くできていても100点からさっぴかれ20点にしかならない、と思うのですが、それはあくまでも作品自体が100点の範疇ならですが本作の場合は最初の感動が240点くらいでそこから80点引いてもまだ普通の100点軽く超えてるじゃねえかくらいの勢いがあるのではないかと思わされてしまうのです。

 

しかも本作は単なる友情ドラマではなく実際に起きた「京アニ放火事件」を思い起こさせる日付を配しフィクションの中に現実を混ぜ込むことで別の感情を引き起こすカラクリまで仕込んでいます。

そのことに気づかせ「まんがにするなんて」という反感を引きずり出してしまう一方でこんなにも努力している若い女性(男性も、ですが)が突然殺されてしまう理不尽悲しみを現実として盛り込ませてしまったのです。

 

他の反感としては「感動的な友情物語として描いているが結局これはマンガ家になれた〝勝ち組”の憐憫にすぎない。うんざりする」というものがあります。

本作はクリエイターを目指してもそこに到達し得なかった者には辛い作品なのです。

私自身、最近もマンガを描いたりしているような人間なのでこの意見には共感できるのです。

それにしてはすぐそこに至らなかったのはさすがに年齢が過ぎすぎて嫉妬が少なくなってしまったのでしょうが、まだ若くして別の道に入らざるを得なかった人にはキツイ物語なのです。

しかし作者はここにも技巧をこらしています。

主人公と副主人公に自分の名前を分けて入れているのです。

「藤野歩」と「京本」は作者「藤本」の分身ということでしょう。

 

とはいえ、作品には明らかに

「主人公はマンガを描き続けてマンガ家になり彼女に憧れてその助手となった副主人公はマンガ家になれないまま殺された」

という本筋があり、主人公がその友人に嫉妬したり恨めしく思ったり失望したり後悔していく感情が描かれていきます。

 

しばらく考えて私がふと思い起こしてしまったのは先日読んだ萩尾望都竹宮惠子の二つの思い出話です。

それでいえば藤野は竹宮、京本は萩尾、というところでしょうか。

一緒に住んでマンガを描く、という関係にまでなったふたりですが竹宮は萩尾の底知れぬ才能に嫉妬し別れを言い出すことになります。

 

もちろんこれは完全な妄想でちっとも中身は一致しませんし若い藤本タツキ氏が竹宮・萩尾の青春思い出話を取り込んだわけもありません。

 

しかし一般人以上にマンガ家諸氏が本作に極端なほど過大なほどに感激賛辞を送っていることにその心理を感じてしまいます。

 

本作はフィクションです。

物語は作家の心が描かれたものです。

作家は筋書きの多くの選択肢から取り出すのです。

マンガ家になれたマンガ家藤本氏は「主人公はマンガ家になり友人は殺された」という筋書きを選択しました。

なぜなのでしょうか。

友人が殺されず優秀なマンガ家に或いは平凡なマンガ家に或いはマンガ家になれずアシスタントもしくは別の道に進んだ、という選択を何故しなかったのか。

 

友人の死、青春時代の死、という題材が鮮烈だから。

京アニ事件」に絡ませて社会性・問題性を与えたかったから。

 

理由は様々につけられますが作者が「それ」を選びたかったのは確かです。

 

フィクションは作者の選択で作られるものです。

その選択は作者自身の心を写しています。

 

それゆえ読者はその選択に感動し、また失望するのです。

 

多くのマンガ家諸氏は藤本氏の選択に感動しました。共感できるからです。自身がマンガ家になり去っていった友人を懐かしむからです。

マンガ家になりたかったのになれなかった諸氏は全員ではないでしょうがその選択に失望しました。殺された京本が自分だからです。なぜ自分が死ななければならないのか。あまりにも理不尽な。

せめて同人作家になるとか、別の道を歩ませてほしかった。

しかしwikiを見ると藤本氏自身高校生からマンガ家になれるような人生でもなく本作自体醒めて描いているのかもしれないとも考えられます。

 

他作品でも見える強烈な残酷性が藤本氏の魅力なのは間違いないのです。

 

 

 

 

 

 

 

『Sonny Boy』第2話エイリアンズ 夏目真悟

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もしや第二話で視聴終了決定するかもと不安が大きかった『SonnyBoy』第二話視聴終えました。

結果かなりいいのではないかとちょっと安堵しています。

 

とはいえ先週第一話を見てそれから楳図かずお漂流教室』を読み漁って大感動し人生観が変わったとさえ思わされました。

すべては『SonnyBoy』第一話が興味を覚えさせてくれた運命でそれだけですでに感謝しきれないほどです。もしこのアニメがなかったら一生『漂流教室』を読まなかったか、もしくは数年後もしくは70歳すぎてから、なんてことになったかもしれません。

 

漂流教室』未経験であれば本作アニメは生ぬるい設定展開に思えるかもしれませんが楳図氏が約50年前にあれほどハードなサバイバルマンガを描き上げたのですからそれを超える過酷なサバイバルは発想できないでしょうし、そっくりに真似しようとしても「やっぱり『漂流教室』に比べたら云々」と比較されてしまうしかありません。

それならすっかりイメージを変えて、つまり水・食料もなく生き延びるために殺害しあう、という初期設定は変えてしまい別の方向性の物語にしたほうが良いと私も思います。

 

もちろんこのアニメ作品がこの後どんな展開になるかはまったくわかりません。それでも第二話まで観た感じでは私はかなり期待しています。

 

昨日の記事で私は、楳図かずお氏は『漂流教室』で未来への予測の中に自らも体験し苦しんだに違いない戦争中の子どもの苦難を織り交ぜて描いたのではないかと書きました。

それならば戦中戦後の困難を知らずに育った世代が描くならその苦難はまた違うものになるはずです。

 

飢えや暴力描写はどうあがいても楳図氏の体験・知識には及ばない、それならば別の描き方があるのではないかと本作創作者は考えたのではなかろうかと思うわけです。

 

漂流教室』の最初からぶっ飛ばしていく過酷さ、苛烈さと真逆ののんびりしたサバイバル、さてどうなりますか、楽しみです。

『漂流教室』楳図かずお

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この数日話題にしています『漂流教室』は1972年から74年にかけての連載少年マンガですが、私は今回初めて読みました。正直ちらりとも読んでいなかったのです。少なくとも記憶していませんでした。

つまり描かれてからほぼ50年が経過して読んだわけですが今まで読んだ他のどのマンガ作品よりも衝撃を受けました。

フィクション分野の小説やマンガ映画ドラマなどを含めてもこの作品よりも恐ろしい作品はなかったと今思っています。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

 

その明確な理由の一つは突然破滅した未来の地球にタイムスリップするという恐ろしい状況に叩き込まれるのが主人公の小学6年生という子どもであり彼とともに800人以上の1年生から6年生までのこどもたちと紛れ込んでしまった3歳の男の子だからです。

 

そこには教師たちと給食運送の男性も含まれていたのですが、彼らは子どもたちを守るどころか何人もが早々に精神を病んで自滅してしまうのです。そして最も頼りがいのありそうだった主人公の担任教師-立派な体格の二枚目で信頼できる人格者に見えるーはそれどころか教師や子どもたちを次々と殺害し最後には主人公・高松翔を絞め殺そうとするのです。

様々なパニックものを考えたとしても主人公の仲間である優しくてかっこいい男性がいきなり子どもたちを殺してしまう、なんて思いもよらないではありませんか。

しかしこの危機に翔が思わず母親に助けを求めた声が過去の世界にいる母親に届きその母親が考え行動して過去のナイフを未来の息子の手に渡してしまう、というアイディアに震えました。

なんという発想なのでしょうか。

長い時間を経て渡されたナイフは信頼していたはずの教師を刺し殺してから崩れ去ってしまいます。

このリアルさの演出にも感心しました。

 

教師と生徒、そしてパン屋と3歳の男の子が存在していた小学校が砂漠と化してしまった未来の地球へタイムスリップする。

もちろんそれまで供給されてきた外部からの電気・水・食料などの生活必需品は学校内にあるものしか使えない。

大人である教師は次々と自死もしくは殺害され全員いなくなってしまう。そして残った大人は給食運搬業者の関谷ひとりになります。

しかしこの関谷は自分が運んだ給食は全部自分だけのものだと主張して「今まで給食のおっさんと呼んで馬鹿にしてきたな」と突然怒りだし彼もまた抵抗する子どもたちを殺害していくことをまったく遠慮しないのです。

 

主人公・翔は持ち前のわんぱくぶりもあって子どもたちを纏め相棒的な少女咲っぺと子どもたちの協力で関谷をやっつけわずかな食糧・水を分け合いさらに弱い下級生たちに「男の先輩をお父さん、女の先輩をお母さんと思ってがんばってください」と演説します。

楳図氏の描く子どもたちのかわいらしさも相まって次々と殺されそして時には自死していく姿に戦慄せざるを得ず、その状況でなんとか生き抜こうとする姿に涙してしまいます。

 

本作長編は素晴らしく良く考えられ練られたSFでありますが私はこれは戦争中の子どもたちの姿を描いたものなのでないかと感じました。

楳図氏自身1936年生まれなので1945年に終わる戦争と戦後の恐怖・苦難は幼少期の記憶として様々にあるのではないでしょうか。

ご自身が幼少期に戦争を体験したからこそ戦争の中では子どもたちはあまりにも無力であり残酷に殺されてしまう、死んでしまうことを感じられているのではないかと想像します。

漂流教室』での子どもたちの悲惨さは今まで聞いたり読んだりしてきた戦争中の子どもたちの体験を思い起こさせます。

食料がなくなりひもじいのを我慢しなければならない。作品中にいくら食べても満足できずもっとくれと食料を求める男子が登場しますがこれも戦時戦後によくあった現象と読んだことがあります。

本作の登場人物・関谷ほど卑劣なキャラクターはいないでしょう。食料は自分のものとして子どもたちには与えず抵抗する子どもは踏みつけ「関谷様と呼べ」と怒鳴りあげくに女子たちには料理と合唱を命令し男子たちには兵士になることを命じて襲ってくる怪物に命懸けで戦わせます。

彼はなぜか「アメリカが自分を助けに来る」と信じています。これは現在のネトウヨの言い分に似ています。私には不思議な思考回路だと思えるのですがなぜか彼らはアメリカがすべてなのです。

 

どうしようもなくなった子どもたちが学校の屋上から飛び降りて自殺する場面もあります。これも戦時中追い詰められた人々を思わせます。

食べ物を盗んだのではないかなどの疑念でリンチにあう、なども戦時を思い起こさせます。

障碍を持つ少女が引け目を感じる、ペストの蔓延で薬がない、飢えが極まり人肉を食べるようになる、などもそうです。

 

そして最後、アメリカからの救援物資が届いて翔たちが安堵する場面で決定的に

「これは太平洋戦争中の子どもの物語だ」

と思ったのです。

 

それでももちろんこの作品は素晴らしいSFです。他に類を見ないほど卓越したそして情感にあふれるSFマンガ作品なのです。

そこに作者が体験したあるいは様々に見聞きした戦争でのこどもたちの物語を重ねて表現したのだと私は思います。

 

母親の深い愛情とともに何もかも失われた世界でそれでも未来を信じて生き抜こうとする子どもたちに心を打たれます。

 

さて現在世界に蔓延するコロナウィルス感染もまた戦争と同じだと言われています。この状況下にいる子どもたちもまた苦しい思いをしているのです。

まだまだコロナ禍は終わっていません。そしてどうなるのかもわかっていません。

私たち大人は子どもたちを守ってあげなければいけないのですが果たして世界はどうなるのか、何もかもわからないままです。

願わくばおとなたちが本作の教師や関谷になることなどありませんように。

このマンガが実現してしまうことなどないように私たちは考え行動しなければなりません。

 

萩尾望都ー親に見捨てられたこどもたちー

ここ数日楳図かずお漂流教室』を読み、そのなかに萩尾望都は他の誰よりも楳図氏の影響を受けているのではないかと感じてしまいました。

萩尾氏は影響を受けたマンガ家好きなマンガ家としていつもまず手塚治虫をあげていますし次に横山光輝わたなべまさこなどの名前を今まで見てきました。そのなかに楳図かずおと記されていたことはなかったように思うのです。

もちろんこれは私の勝手な思い込み、妄想にしか過ぎないので『漂流教室』で私が感じたどの符号もまったくの偶然にしか過ぎないのかもしれません。

たまたま萩尾・楳図のおふたりが共通する感性を持っていて似てしまったとは考えられなくはないのでしょう。

しかし反面『漂流教室』にあって萩尾望都作品に絶対ないものがあったのです。

それが『漂流教室』の最も大きな要素である

「息子を必死で助けようとする母親の愛情」

でした。

 

以下すべての萩尾望都すべての作品のネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

 

萩尾望都作品は「親の愛」がまったくない、もしくは乏しいものが連なります。愛があっても既に存在しないという設定も多いのです。

両親の愛情を直に受けていないこどもたちを描いた作品ばかり、とさえ言えます。

 

まずはもっとも有名な代表作『ポーの一族』のエドガーとメリーベルは実の両親に捨てられています。ふたりの物語の始まりは捨てられた場面から、と言ってもいいのです。

エドガーの妹への愛情は強いものですが萩尾氏自身は「兄」がいないので想像しやすかったのかもしれません。それでもエドガーとメリーベルが過ごした期間は短いのです。

(実質の時間はある程度長かったのでしょうがマンガ作品としてとても短い)

次に『トーマの心臓』はドイツのギムナジウムが舞台、つまり両親と離れ寄宿学校に暮らすこどもたちの物語です。

捨てられたわけではないとはいえ、両親を極力描かずにすむ題材です。

竹宮惠子氏はこの設定を萩尾氏が〝盗んだ”と訴えることになってしまうのですが彼女はこの設定に心底逃げ込んだように思えます)

しかも主要人物はほぼ親から事実見捨てられた少年ばかりです。

ユリスモールは父親が死亡、母親は厳格な母に縛られユリスモールは家庭に近寄れません。

エーリクもまた父親が死亡、母親は良い人ですが次々と恋人を変える上にエーリクの自殺未遂を見逃します。

オスカーは母親が死亡。育ての父親は失踪し実の父親とは作品中は認め合うことがないままです(直後養子になる予定ですが)

 

短編作品もあげていくとキリがありませんが親から消される話、母親を殺す話、などが続きます。

名作短編と言われる『小夜の縫うゆかた』も母親がすでに死亡。『秋の旅』は母子を見捨てた父親に会いに行く息子の話です。

名作SF短編『あそび玉』も実の親子ではない、という設定です。主人公である息子がいなくなっても両親が「なんとしても取り戻す」というような熱い展開にはならないのです。息子も軽く別世界に行く決心をしてしまいます。

ずらっと作品名をみていくとほぼ両親もしくは片親がいない、親とのつながりが薄い、という設定ばかりです。

次の代表作『11人いる!』の主人公タダも両親が死亡したこと自体が物語の鍵になっています。

アメリカン・パイ』は何度読んでも泣いてしまう名作ですが実の娘の死を前にしてあっさり去っていく両親がちょっと疑問ではありました。しかし物語があまりにも感動的なのでその部分が気にならないという不思議です。

 

レイ・ブラッドベリ傑作選では「宇宙船乗組員」「びっくり箱」「集会」という親を失う、親の奇妙な束縛から逃れる、親に失望されているこどもたちが選ばれています。

 

百億の昼と千億の夜』はそもそも親子の愛情という題材ははりこんでいません。

 

『スターレッド』ではレッド・セイは故郷・火星に対して激しい慕情を抱きますがなぜかちらっと姿を見せた親のことを思い出しはしません。彼女の「親のことをちらとも思い出さない」のは徹底しています。

地球で彼女を育ててくれたパパ・シュウには感謝していますが。

 

ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』のマンガ化。大好きな作品ですが、やはり親が死んだ、ことで自由な生活をおくる子供たち、という設定を選ぶのは徹底的です。

 

『メッシュ』これはもう徹底的に「親に捨てられたこども」という題材で描いています。

 

『エッグ・スタンド』素晴らしい作品です。そしてやはり母親を殺しています。

 

『マージナル』なんというか・・・この世界が男性ばかりで「母」という存在がたったひとりしかいない、という設定です。

そのたったひとりの母から生まれた男性たちの話です。

めちゃおもしろい作品で大好きです。

 

『ローマへの道』見捨てられたこども、そのままですね。とてもつらい話でもありますが珍しく救いのある話になっています。

 

そして『イグアナの娘』現実に日本人で母親に嫌われる・厭われる娘の話、を真正面からやっと描けた作品、と言えましょうか。

それでもイグアナになってしまった、という設定でなんとか逃げている気もします。そのまま直視するのは恐ろしいのです。

 

そしてさらに『残酷な神が支配する

この年は萩尾望都が長くあの手この手で逃げてきた親との対決を真正面からぶち当たる決意をしたのでしょうか。

とはいえやはり外国舞台で義理の父親からレイプされ続ける少年、という逃げ道ではありますが。

物凄い大作で萩尾望都の代表作の一つにあげられますが私はこの作品だけは好きにはなれないのです。凄い力量、凄い技術、とは思いますが。

事実この作品で私はしばらく萩尾望都から離れてしまいました。

 

バルバラ異界』読んだのは単行本発売から数年経ってからでしたが結局この作品で私は再び萩尾望都に戻りました。

本作は『残酷な神が支配する』の真逆に実の父親が息子を守りたい一心で奮闘する物語です。

とはいえ出だしはその父親が長い間息子を見捨てていたために息子からは激しく嫌われている、という設定になっていますからやはり、としかいえませんが。

それでもこの素晴らしいSF作品は私にとって全萩尾望都作品の最高峰と思っています。

出だしは見捨てていたとはいえ、萩尾氏の作品で父親が必死で息子の愛情を求め彼の幸福を願っていく新境地となった、と私は感激しました。

が今回楳図かずお漂流教室』でその感激は単に萩尾氏の技巧だったのではないかと思わされました。

萩尾氏が創作した父親の愛情は、楳図かずお漂流教室』に登場する母親の愛の姿を模倣したものではないのか、と思うのです。

これはショックでした。

萩尾氏が真似をした、というようなことではありません。

これは「盗作疑惑」などというようなものではないのです。

やはり親の愛情というものを心から感じられない萩尾氏にとって「息子を思って走り回る父親」という物語を創造することはできず『漂流教室』の息子を助けようとする母の姿を借りることでしか描けなかったのだ、ということが悲しく思えたのです。

 

事実、その後も萩尾氏の作品が親の愛情に満ちたものに変化するわけではありません。

それは『バルバラ異界』で萩尾氏の新境地を感じた私には「なぜ元に戻った?」という疑問になったのですが萩尾望都氏は新しい境地に達したりしたのではなかったのです。

王妃マルゴ』ではすっかり元の「母親の愛情を与えられない見捨てられた娘」の話に戻っています。そして物語中に一度も母親の愛情を感じる場面はありません。

より『漂流教室』の題材〝二つの世界”に似通っている『AWAY』は設定自体は『漂流教室』をまざまざと思い起こしますが肝心の「母子の愛と強いつながり」は完全に失われてしまいました。

バルバラ異界』と比較しても『AWAY』は内容はおもしろくても感動がないのです。

いくら仕掛けが緻密で驚異でも感情が揺すぶられなければ人は感動できないのです。

もしかしたら萩尾氏はそのことに気づいていない、のでしょうか。まさか、とは思うのですが。

 

その後、私は詳しくは調べてはいませんが再び『ポーの一族』を執筆中です。

ある意味中断してしまったように思えていたこの作品の再開はファンとしてはとてもうれしいものですが萩尾望都氏は結局「親子の愛情」というものを心底信じて描くことはないのかもしれません。

無論「親子の愛情」などというものは幻想にしか過ぎなくて生存と子孫を残すためのプログラミングにすぎない、ということなのかもしれません。

 

唯一父親の愛情を描いたかに思えた『バルバラ異界』も肝心の息子の幼少期を父親は見捨てているのですし、それ以後急に君を取り戻したい、という父親など逆に酷いとも言えます。

そしてその後安定のー親に見捨てられたこどもたちーの物語に戻っていきます。

 

少し前たかつて共に暮らした竹宮惠子氏への返答のような著作『一度きりの大泉の話』はとても辛いものでした。

両親から愛情を与えられなかった萩尾氏は竹宮氏・増山氏との共同生活に最近流行りの「疑似家族」のような安らぎを求めてしまったのではないのでしょうか。

しかし萩尾氏はそこでもふたりに見捨てられてしまいました。

その理由が竹宮氏の言うように「萩尾氏の才能への嫉妬」だとしても彼女自身は捨てられたのです。

 

それから50年経って「仲直りしましょう」と言われても(しかも直にではなく本の上で)キリヤ少年のように頑なに拒むのは当然です。

 

作家としては萩尾氏の葛藤は凄い作品を生み出す原動力になったのかもしれません。

しかしその心の痛みを思うとその「疑似家族」が幸福であったなら、とも思います。

が、そんな幸福はこの世界にはないのかもしれません。

 

親に見捨てられたこどもたちは凄い作品を生み出す人が多いように思えます。

逆に言えば幸福な子供時代を過ごした人はたいした作品が生み出せないとも言えます。あたりまえですが神様は残酷です。

 

 

 

 

 

 

 

 

萩尾望都著『バルバラ異界』『AWAY』は『漂流教室』からのオマージュ

今までに感じたことがないほど衝撃を受けています。

とはいえこの衝撃は他で読んだことも聞いたこともないので(だからこその衝撃でもあるのですが)まったくの勘違いなのかもしれませんが。

 

以下どの作品もネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

 

先日書いたように私はこれまで楳図かずおの作品をほとんど読んできませんでした。話題の作品をいくつか拾い読みした程度でした。

画力の高さや話の凄みはわかるのですがなんとなく敬遠するかんじだったのです。

いっぽうの萩尾望都については以前かなり詳しく書きましたが少女期に出会って以来読まなかった期間はあれど常に気になり今では他のどの作家より読んでいます。

つまり萩尾作品は私の頭の中に染み付いたように入っているのです。

その頭をもって私は初めて楳図かずお漂流教室』を読みました。きっかけは新作アニメ『SonnyBoy』の元ネタだという触れ込みがあってこの第一話に感心したからです。

 

読んでいくうちに私はいくつもの場面でぎょっとしました。

明らかにそれらは萩尾望都『AWAY』に使われた設定・演出だったからです。その詳細は前回の記事に書いています。

しかし一見すぐに似ていると思わないのは大きな設定がまったく違う-『漂流教室』は小学校だけが未来へタイムスリップする。『AWAY』は世界中で18歳以上と未満で世界が分離してしまうが同じ時間帯に存在するーからでしょう。

 

が分離された二つの世界で主にこどもたちが大変な苦悩をしていく過程を描くのは同じでありもっとも似通っているのはこの分離された二つの世界を交信する・物を渡す手段がある、という部分です。

 

この物を渡す手段において楳図かずお氏のアイディアは秀逸です。過去に存在する母親が殺されそうになる息子のいる場所にナイフを置くことで未来の彼に届く、ペストを恐れている息子に薬を届けるため、死体内部に薬を縫い込めてミイラになった腹部からそれを取り出す、すごい発想です。

 

萩尾『AWAY』が『漂流教室』からもっとも受け継いだものはその恐怖感だと思います。

しかしこれも『漂流教室』において力のない小学生が教師や給食運搬出入り業者関谷と戦う恐怖に比べると『AWAY』は「こどもだけ」の世界なのでやや弱くなってしまいます。

そこで登場するのが異常性格者高山リストです。

リストが無残に子供を殺す場面は萩尾作品の中で最も惨たらしい場面で私は最初読んだ時にひどくショックを覚えました。

萩尾作品には珍しいこの残虐は『漂流教室』からもたらされたのではないかと思うのです。

 

 

もう一つこれも楳図世界の大きな驚きの発想ですが『漂流教室』というあまりにも過酷な世界に送り込まれた小学生のひとり咲っぺが「この世界にいたい。帰りたくない」と言い出す場面があります。

咲っぺ自身がしっかりした女子だということもあるのでしょうが彼女は主人公である翔くんが大好きで相思相愛だと思っていたのが体の弱い美少女・西さんの出現から翔の心が次第に彼女へ向いていくのを知って嘆きます。

それでもこの世界にいれば翔くんといつも一緒にいられると思う咲っぺはその恐ろしい世界にいたいと願ってしまうのです。

『AWAY』は漂流教室と比較すればまったく平和な世界ですがそれでも18歳未満子供だけで社会を回していくのは大変なことです。

 

『AWAY』では恋愛関係も『漂流教室』と共通したものになっています。そこを似せる意味はあったのか、とも思いますが偶然似てしまったのかもしれません。

翔くんを思う咲っぺにあたる『AWAY』の大ちゃんは18歳になって一足先にHOME世界に戻ってきてしまいますが元祖・先っぺと同じく「あの世界に戻りたい」と願ってしまいます。

 

ここで念を押しておきますが記事に書いているのは私が勝手に思い込んでいることで萩尾望都氏が『漂流教室』を参考にした、とか他の方がそう言われたとかではまったくないので私の勝手な憶測かもしれません。

が、ここまで符号があってくるとさすがに「そうなのでは」と思えてこないでしょうか。

そして『AWAY』で最後に「白い少年」が種明かしを語ります。

世界はもう「終わりへのカウントダウンを始めている」

警鐘を鳴らすためにぼくはあえて世界を分離してみた。

これは『漂流教室』の最後でひとりまじりこんでしまった3歳のユウちゃんが「元の世界に戻って必ず未来を変えて見せる」といったことに符合します。

 

正直萩尾著『AWAY』は『漂流教室』の凄さには遠く及びませんでした。

しかし作者萩尾氏は私たちの努力で来るべき恐ろしい終末を変えなければならない、というメッセージを伝えたいたい気持ちで『漂流教室』の恐怖をもう一度描いたのではないかと思うのです。

 

そして先日書いたように『AWAY』には『漂流教室』の最大の感動が存在しませんでした。

漂流教室』で読者が最も感動するのは主人公・翔を助けたいと思う母親の強い意志です。我が子を救いたい一心でに母親は狂ったように走り回り願い続けるのです。

萩尾氏は『AWAY』で主人公カズキとその両親との愛情をまったく描けませんでした。それは彼女が今までも苦手とするもので仕方のないことでした。

といいたいところですが『AWAY』よりも先に執筆した『バルバラ異界』では主人公・渡会は息子キリヤを助けたい一心で走り回っているのです。

この姿を私はこれまでは萩尾氏が切り開いた新境地と考えていたのですが『漂流教室』の母親の姿からきているのではないかと今回思えたのでした。つまり親の愛情を描くのが苦手な萩尾望都氏は『漂流教室』の母親の姿を写し取ることで渡会という父性愛に満ちたキャラクターを描写できた〝だけだった”のでは、とすら考えるのです。

 

さらに『バルバラ異界』のラスト3ページ前と『漂流教室』のラスト4ページ前場面がそっくりなのです。

バルバラ異界』では父親が会うことのかなわない息子を思って空を見上げ小さな息子が空を駆けていく姿が描かれます。

漂流教室』では母親が会うことのかなわない息子を思って空を見上げ小さな息子とその仲間たちが空を駆けていくのです。

この二つの場面はどちらも強く心を揺さぶられるものです。

なのにもかかわらず萩尾氏は後に執筆した『AWAY』ではそうした親子の情愛を描くのは省いてしまいました。

 

バルバラ異界』が受賞をする名作になったのに比べ『AWAY』が面白い発想と試みなのにイマイチになったのはそうした感動を盛り込むことができなかったからではないでしょうか。

 

この親子の情愛をどうしても理解できない、ゆえに基本的に考えられず描けない。

萩尾望都という優れた作家におけるこの呪いは深い、と思わずにいられません。

『SonnyBoy』と『漂流教室』と『AWAY』

先日『SonnyBoy』第一話に感激して原案となっているという、未読だった楳図かずお漂流教室』を一気読みしました。凄いマンガ作品でした。

そしてこれは既読『AWAY』(萩尾望都著)が『漂流教室』から多大な影響を受けているのがわかりました。

先日私は『SonnyBoy』を観てむしろ『AWAY』を思い浮かべたのですがそうなるとこの三作品はつながっているのかもと思いました。

 

とはいえ萩尾望都氏は『AWAY』一巻巻末に『漂流教室』について一言述べられてはいますが『SonnyBoy』が『AWAY』の影響があるのかはまだよくわからないわけですが。

 

とりもなおさず『漂流教室』は他2作品の大元であるのは確かです。

 

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

「確かです」と書いてしまいましたが『漂流教室』を今回初めて読んでいて私は大きなショックを受けてしまいました。

ひとつはその『AWAY』について萩尾望都が原案だと書いたのは小松左京『お召し』なのですが私はこの作品を未読なのでその比較は今書けません。

萩尾氏が説明されているとおり年齢で分離されてしまう世界というアイディアを12歳から18歳に引き上げたことで別の構想ができたのだろう、と考えていました。

その説明の中にタイムスリップする作品として『漂流教室』のタイトルをあげられてはいるもののそこから大きな影響を受けた、とは書かれていません。

しかし『AWAY』をすでに読んでしまった私が『漂流教室』を読んでいるとあちこちで『AWAY』はここから影響を受けたのではないかと重なってくるように感じました。

これは「真似した。パクった」というような単純なものではなくそのテーマ、目的、精神性といううような奥深いところの「なにか」です。

漂流教室』は楳図氏がもともとホラー作家であることからもあってぞっとする怪奇現象・恐怖が襲ってきます。

萩尾著『AWAY』はそれに比べるとまったく明るい作品になっていますが「どうしようもないのではないか」という不安・恐怖は『漂流教室』から受け継がれており特に異常な精神を持つ高山リストのキャラクター造形は『漂流教室』の教師や関谷から生まれたのではないかと思ってしまうのです。

こうした恐怖感が他の萩尾作品とはかけ離れたもので読んだ時は非常な衝撃を受けたのですがもしかしたら萩尾氏は執筆時参考に読み返した『漂流教室』のぞっとするイメージをそのまま再現してしまったのではないかと想像してしまうわけです。

 

もうひとつ、『AWAY』のヒロイン一記(カズキ)は本当は年上の大介と恋人同士だったのに彼が先にHOMEへ行ってしまったせいもあってトビオと深い関係を持ってしまう、という設定になっているのがちょっとだけ不思議だったのですがこれも『漂流教室』で主人公・翔くんが仲良しだった咲っぺより西さんというか弱い美少女を好きになってしまう物語の影響を受けてしまったのではないのでしょうか。

 

他、『漂流教室』の未来と現在がつながる方法があるように『AWAY』でもHOMEとつながる方法を見つけ出します。このアイディアが面白くて笑ったのですが『漂流教室』では切ないほど悲しく愛情深いアイディアだったのもまた驚きでした。

 

では二つの作品の違いは、というとこれも悲しいことに相変わらずの萩尾望都氏の親への不信からくるものです。

漂流教室』で読者が最も感動してしまうのはなんといっても未来へ行った主人公・翔くんと現在にいる彼の母親との強いつながりでしょう。

翔くんの母親は未来にいる(と信じる)息子のために周囲から精神異常と思われるのもかまわず息子を救いたい一心で駆けずり回り自分の腕を入院が必要なほど切りつけるのです。

最後に翔の帰りを信じて立ち続ける姿にも打たれます。この場面は萩尾望都バルバラ異界』を彷彿とさせます。うーむ。萩尾氏。ご自分で思っている以上に梅図先生に影響を受けているのではないですか。

一方、萩尾氏『AWAY』は主人公と親たちのつながりが極端に薄く親は存在しているのにもかかわらず娘との愛情でつながったりしないのです。

 

漂流教室』の主人公・翔くんが最初から最後まで母親を呼び続け母もまた息子を求め続けるのとまったく違います。

もちろん何も知らなければ「そこが似ていたらパクリになる」と言えますが萩尾氏作品が「親との愛情・つながり」を信じていない、ことからくる差異であるのを感じます。

 

『AWAY』は非常に面白いSFなのですが大人と子供が分離してしまう、という設定にしたにもかかわらず「親と子」の表現が乏しかったのが弱点だったのだ、と今更気づきました。

それに引き換え萩尾著『バルバラ異界』では同じように世界が分離してしまう設定のなかで親と子の物語を強く打ち出して描いています。

バルバラ異界』の主人公で父親の立ち位置である渡会はまるで『漂流教室』の翔くんの母親の様に息子を愛していてひとりで奮闘します。彼の造形は翔くんママのイメージから生まれたのではないか、というのは考えすぎでしょうか。

 

さて『SonnyBoy』がすっかり置き去りになってしまいましたがそんなこんなでこの新しい作品に期待と不安を持ってしまいます。

第一話ではまるきり子供たちだけの世界でした。

漂流教室』を元ネタにしていると公言しているこのアニメ作品はこの先どのような展開になっていくのでしょうか。

『Sonny Boy』夏目真悟

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予想を思いきり裏切られました。とんでもない方向へぶっちぎりでです。このアニメ物凄いことになるのでしょうか。

 

少し前に新作アニメに江口寿史キャラデザのがある、と知ってちょっと気になっていました。

が、正確に言えばキャラクターデザインではなくキャラクター原案でした。

そしてたしかに観てみると主要メンバーは江口寿史味強いですが脇に行くほど違ったテイストになっています。

 

さらに言うとこの作品最初に江口寿史の名前を見てしまったのでちょいと侮っていました。

江口氏が嫌いなわけでもないのですがやはり彼の全盛期のイメージが強くてこのアニメも「絵は可愛いけど中身はあんまりない」のではないか。そしてかつてのイメージ(80年代?)を再現しただけのノスタルジックアニメなのかなとも。

ところが本作観始めて数秒まったく違うことがわかってきました。

 

たしかに映像は江口寿史イラストをそのままアニメ化したようなデザインを意識して取り入れられています。しかし内容は日本のテレビアニメでは珍しいほどのSFを目指しているようなのです。

 

そもそも日本テレビアニメの出だしというのは退屈なものです。特に学校ものというジャンルになると解り切っているのにもかかわらずまたも「退屈な日常」という演出を入れてうんざりさせてくれます。おはよう、遅刻遅刻~、早弁かよ、屋上でさぼり、廊下で騒がない、などというスタンプの繰り返しを何度観させられたことか、ですがこのアニメそこをばっさり切り捨ててしまいました。

さすがに私も「あれ?これ2話目?」とさえ思ったほどです。

 

退屈な学校生活にうんざりしていた私たち、を演出した後のいきなり別世界異世界へ行く、というのがゴールデンパターンで嫌いで苦手なのですがいきなり鉄の掟を壊してくれました。

 

というか本作は『漂流教室』を元にしているらしいのですが私は『漂流教室』を読んだことがなく内容をまったく知らず『蠅の王』もまた読んでないという体たらくです。

今からでも読んでみたいとは思っているのですが。

そんなこともあって私が思い浮かんだのは上の二作品ではなく萩尾望都『AWAY』でした。

この話は学校ではなく世界がまるごと分離してしまう、という話なのですが。

・・・もしかしたらこれってネタバレ衝いたのか?という妄想をしたりもしますがであれば結構問題作品になってしまうかもしれないのですが。

 

とにかく、思いもよらぬ想定外作品に胸が高まっています。