ガエル記

散策

『ギフト』サム・ライミ

2000年12月公開 パラマウント・クラシックス配給

以前鑑賞していて「凄い映画だった」という評価を持っているのにもかかわらずなぜか内容をまったく覚えておらず「記憶を消したかったのか」と訝るものの気になって再鑑賞しました。

 

 

ネタバレします。

 

 

結果「確かにこの内容では記憶を消したくなる」だった。

 

実はジェシカが梢に揺蕩っている場面だけ記憶に残っていてずっと怖かったのだがこれで意味がわかったのでほっとしたところだ。

主役がケイト・ブランシェットだということもキアヌー・リーブス、ヒラリー・スワンク、グレッグ・キニアなどそうそうたる出演陣なのだがなにも覚えていなかった。

なのに「おもしろい映画だった」という評価だけしているのも奇妙である。

 

記憶を消したくなる理由の一つはこの映画、かなりストレス量が高い。

ケイト・ブランシェット演じる主人公アニーは三人の幼い息子を育てているシングルマザーなのだが生計を”占い”によってたてている。

とはいえ州の法律で「占いによって報酬を得てはならない」らしくわずかな”お礼”をもらうことでぎりぎりの生活しかできない。

しかも「胡散臭い占いをしている」ことで魔女呼ばわりをされている。若い女性の失踪事件に貢献するため占いをしても警察からは罵られ裁判でもずっと嘲笑されている。しかもこの舞台設定は現在(西暦2000年当時)であって昔話ではないらしい。

アニーは美人で体格も堂々としているのにもかかわらず女性は力なき存在としてしか認知されておらず映画の中の女性たちは常に男性たちの威圧感に怯えているように見える。

ジョージアというアメリカ南部では現在でもあまり変わらないのだろうか。

こうした性差別描写と超能力への蔑視を露わにしているのが精神的にきつすぎて映画の内容を記憶に残せなかったようだ。

 

今観てみるとストレスは相変わらず強く感じるもののその表現も含めてやっぱりおもしろい映画だったと評価できる。

ただしまた記憶を失ってしまうような予感もある。

 

いったいなんなんだろう、このきつさは。

超能力を持ちながらも最愛の夫を死なせてしまったアニー。

せめて他の場所へ移動すればよかったのでは、とも思うのだが彼女は夫の墓の近くにある家に留まる。

彼女はカードを使う占いをして同じように弱い人々を助けている。

夫から日常的に暴力を受けながらも離れきれずにいる妻。

幼い頃に実の父から性暴力を受け精神を病んだ青年。

そして妻に暴力を振るい続けている夫も婚約者を殺害してしまう小学校教師も田舎に住む弱い人々なのだ。

そうした負の連鎖のような田舎社会の在り方があまりにも怖ろしくてメンタルにきてしまう。

 

しかし今回再鑑賞してほんとによかった。

みんなが感動するのはリビシ演じるバディであるに違いない。

精神を病んでいる救いのない彼だけが唯一アニーを救ってくれた。

なんとなく『アラバマ物語』不気味な隣人ブーを思い出す。

 

しつこいが本作を観ていてもどうしても『ちいかわ』と重ねてしまう。

現在なのに遠い昔のような社会。

都会からは遮断された場所。

弱き住人達。

そんな世界だからだろう。

 

長年謎だったアメリカ南部の樹木からしだれている何かが「スパニッシュ・モス」だと知る。あれを観たら「アメリカ南部」だとわかるね。

『アジャストメント』ジョージ・ノルフィ

2011年3月公開 ユニバーサル・ピクチャーズ配給

これもなんとなく見つけて鑑賞。

ありきたりのSF展開のようでいて案外面白く観れたのは何故なのか。

 

 

ネタバレします。

 

 

政治家志望の男デヴィッドがダンサー志望の女エリースと出会い恋に落ちるのだが、そこに謎の男たちが現れる。

彼らは「世界の調和を監視し、人々の運命を操作してそのバランスを保つのが仕事である」”調整員”なのだという。

デヴィッドが大統領への道を進むには彼女の存在は邪魔になり、デヴィッドと結ばれるとエリースは有名なダンサーになれず子ども相手のダンス教師で終わるのだという。

一旦は別れることを決意したデヴィッドだったがやはり彼女をあきらめきれず運命を変えていこうとし始める。

これを手伝うのが調整員のひとりであるハリーであった。

 

これまでもこういう「自分の運命は自分で切り開くのだ」という作品を何回観て来ただろう。

レビューを見ても「よくある内容が浅い作品」とされていたりするのだがそこまで酷くはなかったのではないか。ラブストーリーをメタ思考してさらにそれを比喩しているような構造に思えて興味深かった。

 

とはいえ『ちいかわ』が無敵の人気を誇る現在日本人にはこの作品はまったく受けないのではないかと思えてしまう。

それともまだ2010年代であればいけただろうか。

2026年の現在の人々にとって”運命”はあまりにも非情で重く、とても白紙の未来を「自分で決めていく」ような覚悟は辛すぎるかもしれない。

「因果応報」運命は自然に決められてしまうのだ、というあきらめの方がむしろ安心できるような気がする。

 

「自分は自由の権利を持っている」「自分の運命は自分で決める」強い意識を持つアメリカ人はこの映画は当然のこととして受け止めたのだろうか。

そして『ちいかわ』アニメが英語吹き替えで鑑賞できるようになったらそれをどう受け止めるのだろうか。

全く関係がないのだが『ちいかわ』と真逆のような本作品を観ているとそれが気になってしまう。

 

 

『アトランティスのこころ』スコット・ヒックス/原作:スティーヴン・キング

2002年5月公開 ワーナー・ブラザース配給

U-NEXTで探して偶然何も知らず鑑賞しました。

 

 

ネタバレします。

 

私は自慢するほどキングの小説を読んでいない、というより読破したのは幾つかにすぎない上に本作原作も未読だが、まさにスティーヴン・キングの作品を忠実に映画化したと思える映画であった。

 

ここで言われる「アトランティス」というのは子供時代だけにある幻の国の比喩らしい。

本作はアメリカのべビー・ブーマー世代の子供時代を現しているという。キング自身が1947年生まれでこの世代にあたる。

私はもう少し後の世代ではあるものの「アトランティス」という言葉に物凄く憧れを持っている点で共通していると感じてしまう。

そしてキングの語る世界は異国であるのになぜかとても懐かしい。

ここで”ルートビア”という飲料が登場する。日本ではお目にかからない飲み物だが子供時代は今と違うヘンテコな飲み物がたくさんあってそれも懐かしい。

主人公ボビーが自転車を欲しがっているのも同じで自転車は子どもたちにとってとても欲しいものだった。今の子どもたちはそんな夢があるんだろうか。

観覧車にも憧れがあるがこれは私の子供時代には機会がなかった。私が行けたのは近くにある小さな遊園地の小さな乗り物だけだったがこれも懐かしい。

 

この映画は何かものすごいSFやホラーが描かれるのではない。

何の力も持っていない子供時代は周囲にいる大人の影響だけがすべてだ。

ボビーの父親は死んでしまっていて母親は働いてボビーを育ててくれているが出世欲が強すぎるのか収入を自分のドレスにばかり使ってボビーのお小遣いには厳しい。

そして二階の間借り人になったブローティガンをうさん臭く思い嫌っていた。

が、ボビーにとってブローティガン=テッドは人生の師匠のような存在になっていく。

この”人生の師匠”というモチーフも私世代にはぐっとくる言葉なのではないだろうか。

 

二階の間借り人テッドは不思議な力を持っていて彼と接していたボビーはその力が乗り移ったかのように人の心を読むことができるようになる。

ボビーはテッドを好きになり別れたくないと願うがテッドは「何者か」に追われており最後には謎の男たちに連れ去られてしまう。

いったいそれが何だったのかどういうことだったのかはわからない。

 

可愛らしい幼馴染キャロル、自分が死んだらグローブをあげると約束してくれた親友サリーと三人で遊ぶ場面の輝かしさ、不良に腕を殴られぐったりとなったキャロルを背負って這って助けるボビーの場面では涙ぐんでしまった。

子供時代はほんとうにアトランティスに住んでたのだ。

 

もちろんそんな幸福な子供時代を送ることができたのは全員ではないだろう。

この映画に共感できることこそ幸せなことかもしれない。

 

私にはさすがにテッドは現れなかったがそれはむしろ良いことだったようにも思える。

 

本作はとんでもない名作というわけではないがとても良い作品なのは間違いない。

いやとても良い作品なのだ。

 

そう思わせるのはテッド役のアンソニー・ホプキンスの魅力であるのは確かだ。

 

 

 

 



『ヴィレッジ The Village』M・ナイト・シャマラン

2004年7月公開 ブエナビスタ配給

以前鑑賞していて絶賛しているのに記憶が無くなってもう一度楽しめた。

 

ネタバレします。

 

 

その以前の記事がこちら

 

gaerial.hatenablog.com

上の記事ではかなり政治的に感心し、シャマラン監督の皮肉を込めた作品ととらえていまたのだが、6年経った今回はもう少し違った感想を持ってしまった。

 

それはディストピアという意味でもなくこうした「ヴィレッジ」は将来作られていくかもな、という予感でもある。

閉ざされた村=ディストピアという意味を持つには本作の映像はあまりにも美しい。

無論、閉ざされた村ならではのアクシデントが起こるのだが現在いつまでも続く闘争に疲れ切った人々は心の中でこのような牧歌的生活に憧れているのではないだろうか。

 

今、何を観ても読んでも『ちいかわ』と結びつけてしまうのだが6年前の記事を書いた時(2020年1月15日)は私は『ちいかわ』と出会ってなかった。

『ちいかわ』は2020年1月から連載が始まったとされている。ので当然と言えば当然だ。(最初の一話から観始めた奇特な方もいるだろうが)

 

だが今ではどうしても本作『ヴィレッジ』と『ちいかわ』を重ねずにはおられない。

『ちいかわ』も一種の村社会である。

PCや自動車なんかが存在する不思議さはあるがいわゆる”大都会”ではない。PCや自動車は限られた範囲内でしか使えないし通信手段はない。

人びとはほぼ徒歩で移動していて工場や会社などというものがない。

”店””映画””大きな船”などは存在するし、食べ物が湧いて出てくる・降ってくる、という意味不明展開で成り立っている不思議な村である。

 

『ちいかわ』が絶大な人気を誇っているのは疲弊した読者たちが『ちいかわ』世界に憧れているからに違いない。

わたしもそのひとりである。

そういう思考持ってしまった上で本作品を観なおすと初回で感じた皮肉性はすっかりなくなってしまい「ああ、こんな村で暮らしたいんだ、私たちは」と思ってしまうのだ。

 

『ヴィレッジ』では魔法的なものはないために住民は大怪我を負った時に都合よく文明社会にしかない”薬”を欲してしまう。

そのためになら村の掟を破ってもいい、と考えたヒロインは化け物に襲われる危険を承知で出かけていく。

その果てに湖の『ヴィレッジ』の秘密が解き明かされてしまうのだが彼女は村に戻ってき、そしてまたここで暮らすのだろう。

 

かつてレイ・ブラッドベリが『びっくり箱』を書いた時は閉じられた家に対しての批判があったかもしれない。

6年前私はこの作品に「シャマラン監督の皮肉を感じた」と書いた。

だがその感想は間違っていたのか?

むしろシャマラン監督はこの『ヴィレッジ』に理想郷を夢見ていたのか?

『ヴィレッジ』は2004年に作られている。

『ちいかわ』よりも16年前だ。

『ちいかわ』は『進撃の巨人』から生まれているのではないか、とも思っているが『進撃の巨人』は2009年からだ。

 

ナイト・シャマラン、怖ろしい人である。

 

 

 

『異端者の家』スコット・ベック &ブライアン・ウッズ

2024年11月公開 A24配給

何も知らなかったがタイトルに惹かれて鑑賞しました。

 

 

ネタバレします。

 

 

結果、なんだかなあという感想になったのだがマキマさんの「私も良いと思う映画は十本に一本くらいだよ」という言葉にすがるしかない。

 

もとの映画タイトルは『Heretic』=異端者というだけである。『異端者の家』というとこの家に住んでいるものを「異端者」と指しているとしか思えないがそもそもは布教に来る”モルモン教徒”のふたりも含めてどちらにも取れるようにしていたのではないかと思うのだが。

 

あらすじとしては「モルモン教の布教活動をしている若い女性二人組がとある家を訪れる。一人の初老の男がドアを開けふたりを招く。

折しも雨が降りしきりずぶ濡れになったふたりは誘われるままに中に入る。家の中には

男の妻がいると聞いて安心したのだ。

だが閉じられたドアは翌朝まで開かない仕掛けが施されておりふたりの若い女性たちは男との対話を強要されていく。

なんとか脱出しようとするふたりだったが、男のどこまでも仕掛けられた罠に絡めとられていき一人が殺されてしまう。

残ったひとりは必死の抵抗で男を刺し、自らも深く傷つけられるがなんとか脱出する、という感じだ。

 

ハラハラするスリルはある。

他の方のレビューをみると「ただのホラーではなく深い宗教観の論戦が試みられる」と書かれているがそこまで深くは感じない。

突如として荘子の「胡蝶の夢」が語られるのも「あーよくあるやつね」という感じで醒めてしまうではないか。

そんなものではなく昔からの「男が若い女性を苛め抜く」ために作られた古典的ホラーであるとしか思えない。

最後、ひとりだけが助かるのも定番の展開であったし。

 

しかしまあ一つの家と三人(ともう二人か)さえいればこれくらいの面白みのある作品ができるんだよ、という示唆はある。

論戦というなら途中から女性たちが宗教的に反撃して男の方が(単に殺されるのではなく)徹底的に追い詰められるべきだった。

これは単純に「モルモン教徒の布教活動にうんざりした製作者たち」が腹いせに作ったんではないかなあ。

この映画を観てもうやめてほしいという願いを込めて。

 

 

 

『メアリーの総て』ハイファ・アル=マンスール

今もなお人気の小説であり数えきれない二次創作をされ続けている『フランケンシュタイン』

その小説を書いたのは18歳の女性だった。

 

かつては、というか最近まで単に「凄い才能の女性がいたのだな」という認識でしかなかったのが昨今の女性学の発展ゆえか「抑圧されていたから(フランケンシュタインの)怪物が産まれたのだ」というのが常識になってきたように思える。

 

これもまたかつては「フランケンシュタインの怪物の悲しみは愛されない子どもを表現している」とされてきたのが現在ではそれは「認めてもらえない女性の苦しみ」となっている。

つまり「フランケンシュタインの怪物」とは「女性」そのものなのだ。

 

本作の中で『フランケンシュタイン』の小説をメアリーが書き上げ夫であり詩人であるパーシーに読ませると「素晴らしい作品だ」と賛辞したうえで「でもなぜ怪物にしてしまったんだ?天使にすれば人類の希望になるのに」と問う場面がある。

メアリーはあきれたように夫を見返す。何もわかっていないのかというように。

フランケンシュタイン博士が生み出したのは美しい人間ではないのだ。

それは醜い怪物なのだとなぜわからないのかと。

無論、この小説を書いたのが男性であれば「美しい人間」としたであろう。

有能が男性が作り上げ教育した人間は「美しい存在」であるはずだからだ。

だが女性であるメアリーは男性から教育された”自分自身”を見つめるとそれは「醜い怪物」なのだ、と思うしかなかった。

常に男の庇護下でしか生活できず自由に考えることも行動することも許されないこの状態を彼女は「美しい天使」などとは考えられなかったのだ。

 

そして『フランケンシュタイン』の怪物を醜い姿として描き博士に反抗し続け博士から殺されそうになること、そしてその怪物には名前がつけられていないことなどの表現は200年以上経った今でも我々の心を惹きつけてしまうのだ。

当時、女性の活躍が何も認められなかった社会でメアリーは苦しむ。

父と夫、両方とも文学の世界にいる人間でありメアリーもその知能に惹きつけられている。だが、メアリーの目指すものをふたりの男性は否定する。

メアリーは醜い怪物となってしまうのだ。

 

『フランケンシュタイン』を読んで、もしくはその映像化を観てこれはメアリー自身なのだと気づいた人はいたんだろうか。

私はまったく想像もつかなかった。

しかし創作はことごとく作家自身なのだ。

 

『花様年華』ウォン・カーウァイ

2000年公開

この映画を観ると心が苦しくなる。

それはこの映画と同じような恋をしていたからだけどその恋は不倫相手などではなくこの映画そのもの、というか中華系の映画に対してのものであった。

 

その恋もまたいつの間に静まってしまったのだが。

見返すとわけのわからない苦しさが感じてしまう。

しかしそれはとても甘美で心地よいものでもある。

その思いはこの映画で描かれたそのものなのが不思議なのだ。

 

この作品に描かれているのは互いに既婚者である男女が互いに恋心を持つという物語だ。

奇妙なことにこの男女の互いの伴侶が先に不倫関係であったのだがふたりはそれに気づきながら自分たちは一線を越えまいとする。

 

肉体的な接触がほとんどないままにふたりは何度も何度も出会い食事をし語り合い互いの気持ちを知りながら進もうとはしない。

 

なんだかこれは「人間同士の恋愛」ではないなんらかの思いを描いているような気がしてならない。

自分自身がそう思ってしまうからだ。

わたしにとってはそれがその当時にはまってしまった「中国映画」だった。

その後、韓国映画にはまりそれも過ぎて現在はあまりこれというものがなくなってしまった。

そのせいもあって本作を観返すと夢中になっていた頃こそが一番美しい幸福な時だったのだと泣きたくなる。

誰かに、そして何かに夢中になり恋をしている時こそが人間にとって幸福な時間なのだ。

トニー・レオンとマギー・チャンの夢みるような美しさよ。

まさに夢のような色彩を持つ背景、心を溶かす音楽を聴きながら遠い日を懐かしむ。