ガエル記

散策

『残酷な神が支配する』萩尾望都 その3 さらに『バナナブレッドのプディング』

 

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御茶屋





先に進みたいのですがその前にもう一度昨日の言い忘れを(書き漏れというべきか)

 

萩尾望都残酷な神が支配する』と大島弓子『バナナブレッドのプディング』は読み込めばもっと共通点が出てくるのでは。

これは萩尾氏が直接真似をしたことなのでしょうか。私はむしろ萩尾氏の脳内に『バナブレプディ』の記憶が浸み込んでいて思いがけず似てしまったのでは、とも考えています。

もちろん萩尾氏がこの作品を読んでいるかどうかは知りませんがそれならここまで似通っているのは不思議です。

漏れていたのは

ジェルミの母の名前が「サンドラ」

衣良の姉の名前が「サラ」

「サンドラ」の真ん中の「ンド」を取れば「サラ」です。

ジェルミの母サンドラが結婚し、衣良の姉サラが結婚したことからそれぞれの主人公の苦しみが始まるのです。

 

衣良はジェルミと違い現実に暴行とレイプを受けるわけではありませんが彼女の夢の中に「レギュラー」と呼ぶなにかよくわからない外見はきれいな魔物が出てきて衣良を襲うのです。手にはグレッグが使ったようなロープを持っています(ここも同じという)

衣良は夢の中で「レギュラー」に食われて鬼になってしまい自分は「人殺し」になると思っていきます。

ジェルミは義父であるグレッグに現実に暴行とレイプを受け続け「人殺し」になると思っていきます。

ここで考えてしまうのは「なぜ衣良は性的暴行など受けていないが両親の意にかなわない娘であるということで追い詰められていく、という設定を義父の性暴行と実母の無視という裏切りという(傍から見れば)ハードな設定に変えてしまったのか」ということです。

萩尾氏は『残酷な神』を描くことは辛かったのではないですか?という質問に「グレッグの虐待を描くのは楽しかった」と答えています。

あまりの答えにファンとしては唖然としてしまいますが萩尾氏にとってはこの答えは「当たりまえ」なのかもしれません。

なぜならジェルミの受けたグレッグの性的虐待は萩尾氏にとっては「想像」だから。

むしろ衣良が感じた「両親の意にそぐわぬ娘」という虐待のほうが萩尾氏にとっては残酷なものだったように思えます。

これは萩尾望都氏が常々語られていた両親との隔絶の談話から感じたことです。

萩尾氏が受けた虐待は『イグアナの娘』においてもっと具体的に描かれているのでしょう。

ジェルミが受けた苦痛よりも衣良の母が言う「ばかなこといって」「なんであの子 ちゃんとサラの様に育ってくれなかったのかしら」「なんとも身勝手な娘でどうしようもない娘で」という言葉のほうが萩尾氏にとっては現実の苦痛であったのではないか、と思うのです。

しかしその現実を描くのができない萩尾望都はあるいは自分を醜いイグアナに描き、あるいは異国の美少年が性虐待を受ける物語で読者に自分の受けた苦痛を婉曲に表現するしかなかったのです。

 

さらに二つの作品の共通点を挙げていきます。

残酷な神が支配する』でジェルミがイアンに「ぼくを生んで・・・」という奇妙な気持を伝える場面があります。

男性同士の愛の物語でなくともこのセリフは不思議です。

そしてその後イアンが「その日オレはようやく 彼を生んだ 気がした」というちゃんとジェルミの問いかけに答える場面があります。つまりこれは問いかけと答えがある重要な場面なのです。

 

『バナナブレッドのプディング』ではこれが衣良と姉・サラの関係になっています。

結婚したサラは新婚旅行中にスペインの占い師に「女の赤ちゃんが生まれる」と言われたことを両親に手紙で知らせます。それを聞いた妹・衣良は「サラの赤ちゃんに生まれ変わりたい」と願うのです。

両親とうまく関係が結べない衣良は優しいサラの子供になればもっと愛されるだろうと願うわけです。

この話もきちんとラストで受けられています。

サラは夢の中でまだ生まれていない赤ちゃんに出会い生まれることを怖がる赤ちゃんにこの世界は素晴らしいことが待っているのよ、と答えるのです。

すばらしいラストです。

 

この作品と『残酷な神が支配する』がつながっているのであればジェルミとイアンが「生んで欲しい」「彼を生んだ」という会話が成り立つように思えるのです。

 

残酷な神が支配する』の難解な部分が『バナナブレッドのプディング』で氷解し、逆もまたあるのです。

 

ではなぜ萩尾望都は『バナナブレッドのプディング』という作品がすでにあるのに『残酷な神が支配する』を描いたのでしょうか。

それはまさに「腐女子」的なことだったのではないかと思います。

『バナナブレッド』でもっとも心残りなのは奥上大地が御茶屋峠と結ばれないことです。

 

『バナブレ』での峠と衣良の関係は最高のエンディングを迎えますが奥上の恋心は放り出されたままになってしまいます。教授は問題外です。

彼を好きだったさえ子も新しい世界へと旅立ち彼だけが残されてしまうのです。

萩尾望都氏はこれが可哀そうに思えたのではないでしょうか。

ジェルミは奥上大地の外見と三浦衣良の内面を兼ね備えています。細身ふさふさ巻き毛美少年。

イアンは御茶屋峠にそっくりです。長身長髪スポーツマン女たらし。しかもイアンの弟マットと峠の妹・さえ子はメガネちゃん。

イアンとジェルミを恋人関係に結ぶことで峠に恋していた奥上大地の恋心をかなえてあげたとしたら萩尾さんはとても律儀で優しいかたなのです。

 

他にも他愛ない共通点はいろいろあります。

イアンにボクシング場面があり峠には柔道場面が、というのはどうでしょう。

 

大きく違うのはジェルミが受けた性虐待は読者の心を動揺させましたが衣良が受けた「どうしてお前は姉のようにならなかったの」「どうしてお前はおかしな子供なの」という両親からの愚痴はなかなか他人には伝わりにくい、ということでしょうか。

私自身を顧みてもそこまで衣良のように苦悩してはいないのですが萩尾望都氏の両親への思いを読むと彼女は自分を衣良と重ね合わせたのではないかと思うのです。

 

とはいえ、ここまで書いてきてなんですが、萩尾望都がこの作品を読んだかどうかすらわからないのですが。

大島弓子さんを読んではおられたようなので読まれていたのでは、という推測で考えてみました。

 

と思ったらwikiに萩尾氏のコメントが書かれていました。わー。

ja.wikipedia.org

 

萩尾氏、よ、読まれていたようです。わーお。

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ジェルミを思わせる奥上大地

 

考察はさらに続けます。

 

 

 

 

『残酷な神が支配する』萩尾望都 その2 『バナナブレッドのプディング』

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続けます。

 

以下萩尾作品と大島弓子『バナナブレッドのプディング』のネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

パスワードを手に入れて再読した『残酷な神が支配する』は少しずつ頭の中に入ってきました。

この作品で現実と違ってあり得ない存在は(誰が見てもそう思うでしょうが)イアン・ローランドです。

現実に傲慢なグレッグのような男が愛らしいジェルミのような少年を言葉巧みに支配して性奴隷にしてしまう事態は頻繁に発生しているといっても過言ではないでしょう。

しかもジェルミの母親サンドラやナターシャのようにそれを知っても言えずにいる状況もよく聞くものです。

しかしイアンのようにその事態を知ってジェルミのような被害者をここまで入りこみ自身を犠牲にしていくことは現実にはほぼあり得ないことだと思います。

イアンはもともと異性愛者であり(同性愛の経験はあったとしても)ますがたとえジェルミが女性で普通にイアンと恋愛関係になったとしてもここまで自分を犠牲にできる男性は想像しがたい存在です。

 

ここでイアンの設定が疑問になってもきます。

イアンはいわゆる完璧な男性です。裕福で金に困る要素がまったくない。彼自身が大学に行かず就職しなくても食べていけるだけの財産はあるように思えます。

長身でハンサムで頭脳明晰運動能力抜群ボクシングを好み威圧的でプライドが高いいわば父親の遺伝子を強く感じさせます。

しかしそれらの条件があるからこそジェルミを救うだけの余裕があるわけです。

私が最初に疑問を感じ好きになれなかったのはそこで彼のジェルミへの自己犠牲は彼がすべてにおいて裕福だからできたことでありもしイアンが貧乏でジェルミを保護することは彼にとって困難なことであったら彼はどうしたのだろうか。

萩尾氏はなぜイアンの設定をここまで引き上げてしまったのか。少女マンガという枠内なので華やかにしたかった、ということなのか、もし彼の状況がもっと一般的なものであれば私はもう少しイアンに共感しやすかったのですが彼はジェルミを救うという犠牲を払ってもほとんど生活を崩す心配はないのです。

それとも生活うんぬんを抜きにしたジェルミの魂の救済、という部分にのみ焦点を当てたいためにこの設定にしたのか、私にとってこの設定は今もなお疑問符です。

 

それでもイアンという一人の青年がジェルミという傷ついた魂を救済するために自ら死に近づくほど苦しみ抜いていく過程はやはり壮絶であり裕福といった背景などどうでもよくなっていくのは確かです。

 

そういう疑問に悩んでいるうちに思い出したのが大島弓子『バナナブレッドのプディング』でした。

1979年6刷の単行本で読んだこの作品には『残酷な神が支配する』の要素がすでに描かれているのではないでしょうか。

読み返してみるとあちこちが似通っていて萩尾氏はここから発想を進めていったのでは、とすら思えてきます。

 

おかしな話ですがまずイアンと御茶屋峠の容貌がとても似ています。

長身で長髪の大学生、という他愛もないことですが。

ジェルミにあたるのは女子高生の三浦衣良。彼女は不安定な精神に苦しめられている少女、という設定です。

姉の結婚(ジェルミは母の結婚)に苦しみ(夜中にトイレについてきてもらえないから、なのですが)友人の御茶屋さえ子に「うしろめたさを感じている男色家の男性をボーイフレンドにしたい」と願い出ます。

さえ子は仕方なく兄・峠にその役を演じてもらうのですがその相手役に実際の男色家である奥上大地(サッカー部のキャプテン)を頼むとその恋人である大学教授が勘違いで嫉妬し奥上大地を一晩中酷い目(詳しく描かれていないが体中傷だらけで腕にもみみずばれが)にあわせるという話になります。

サディストの教授の外見がグレッグに似ていて奥上大地はジェルミに似ているのが奇妙なほどです。(細身でふさふさ巻き毛というだけですが)

衣良の父親が絵描きであるのもジェルミが途中から美術に進んでいくのと共鳴しております。

しかしなんといっても両作品の共通点は両親に追い詰められて精神が歪み「人殺し」になったと思う主人公が一人の青年(長身で髪の長い)によって魂が救済されていく過程を描いている、というものです。

この

両親から追い詰められ

「人殺し」になったという苦しみ

 

はまったく共通しています。

 

ジェルミは義父からの性暴行と母親の無視

衣良は「あの子はちょっとおかしいから精神鑑定してもらおう」と言われている

 

という違いはあるのですがそのことによってこの少年と少女は同じように

「自分は人殺しだ」

と悩み苦しむのです。

 

そこに登場するのが

イアン・ローランド

御茶屋

という長身長髪のイケメン大学生(イアンは最初は高校生ですが)

です。

 

イアンは長い葛藤の繰り返しの果てに死に近づくほど苦しみます。

御茶屋峠は衣良に「みんなから嫌われたらいい」と思われたりナイフで頬を傷つけられたりという可愛らしい苦しみを受けます。そして「一緒に暮らそう」というと衣良から「でも私はいつ鬼になって峠さんを殺すかわからない」と泣かれます。

峠は「さすがにナイフでグサリはいやだけどそんな時はさっと身をかわし台所でミルクを温めて君に渡す。そうすると君はそれを飲んでまた明日ね、というだろう」というのです。

私はこの峠の言葉がイアンの苦しみのすべてだと思います。

 

『バナナブレッドのプディング』もラストですべてが解決するわけではなくこれから峠と衣良の幸福をさぐっていく生活が始まることを予感させるだけです。

残酷な神が支配する』もこれからふたりが何度も生と死のはざまをゆきつ戻りつする、という言葉でふたりの人生を予感させます。

 

壮絶な長編物語を描き切った萩尾望都作品もすばらしいですが、大島弓子の一巻で同等と言って良い物語を描き切った才能もまた賛辞されていいのではないでしょうか。

 

まだまだ続きます。

 

『残酷な神が支配する』萩尾望都 その1 『キリング・ストーキング』       

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残酷な神が支配する』は私にとって苦い記憶のある作品です。

 

その苦い記憶とはこの作品の連載当時から私は内容に失望してマンガで最も好きだった萩尾望都を読まなくなってしまったというものでした。

 

 

なぜそれほどこの作品に失望したのか。

それは私がそれ以前から男性同性愛作品を好んで読んでいたことが関係してきます。

私がその分野の作品を好み読んでいたのは世の中にまだ≪BL≫という呼び方が出ていなかった頃で多くは海外の小説や映画などから探し出すしかなかった時代でした。

そうした時代に萩尾氏は『トーマの心臓』などでいくつもの優れた同性愛的(少年愛というほうがいいのでしょうが)作品を発表して多くの支持があり私もその一人でした。

萩尾氏を代表とする作家の活躍があり日本社会で同性愛作品というカテゴリが確立したと言っても反対はないはずです。

女性作家を中心とした「男性同性愛カテゴリ」はやがて≪BL≫という呼び方が定着し今に至っています。

しかし私自身はかつて好きだった「男性同性愛作品」が≪BL≫と呼ばれるようになってから心が離れていきました。

幾つもの作品を読んでも観ても≪BL≫と呼ばれるものに感動することがなかったのです。

特に疑問を覚えたのはBLの中で「レイプによって男性同性愛関係を持つ」形式が異常なほど多かったことでした。

現在では≪BL≫作品を読むことがほとんどないのでまったくわからないのですがその頃は私自身が体感的に思ったことです。

はじめのうちは自分が若いせいもあり未知の世界で刺激的で魅了されていたのは確かです。美貌の少年青年が屈辱を体験する展開を楽しんでいたのでした。

が、そんな作品を多く読んでいくうちに最初は一種の快感を得ていた自分も疑問を持つようになりレイプ設定のBLは避けてしまうようになりました。むしろ嫌悪感を持ったというほうが正しいかもしれません。同性愛が社会的に当たり前となるためにはレイプものを好むBLに疑問を投じるのは当然とも思いそうした作品は低俗と判断したのです。

 

萩尾望都残酷な神が支配する』の連載が始まったのは私がそう思い始めたちょうどその時期でした。

萩尾氏が『トーマの心臓』での少年愛から成長して本格的な同性愛ものを描き出したことに私は期待もあったのですがその内容が始まりからして年長の男性からのレイプという展開だったことに落胆したのでした。

 

萩尾望都が最も低俗なレイプBLをいまさら描くのか。

 

今となってはここに書いた文章を自分で読み返し苦笑するしかありませんが当時の私にはその程度にしか考えが及びませんでした。それほどレイプものに嫌悪感があったとも言えます。私はこの作品であれほど好きだった萩尾望都作品をすっかり読まなくなってしまった、それほど嫌だったのです。

 

さてその後私は何かのきっかけで別の萩尾作品に再会し以前以上になくてはならない作家になりました。読まずにいた数年もしくは十数年の作品を読み漁り素晴らしさに感動しあげくに自分の判断を後悔しました。

残酷な神が支配する』が存在しなければ、もしくは私がスルーしていればその後の感動をもっと早くに感じられたのです。

特に『バルバラ異界』は最高傑作と思っていますし『マージナル』『アウェイ』などの傑作が並びます。

とはいえそれでも『残酷な神が支配する』だけは全巻揃えて何度か読んでみてもどうしてもその良さを感じることができなかったのは事実でした。結局私が作品の初期段階で早合点した、だけではなく全編を何度読み通しても『残酷な神が支配する』への嫌悪感はぬぐえなかったのです。

 

何故この作品を萩尾望都は描かねばならなかったのか。

しかもこんな大長編にして(少女マンガとしてはかなりの長編で彼女の作品としても最長です)その労力を払わねばならなかったのか。

「第1回手塚治虫文化賞優秀賞」を受賞という肩書も私には萩尾望都への賛辞としか思えませんでした。

 

登場人物はすべて共感ができない嫌な人間ばかりです。ジェルミはもちろんですが相手役イアンには魅力のかけらも感じません。

グレッグが嫌な奴なのは当然ですがこの作品の登場人物全員が「嫌な奴」としか見えません。物語は迷走し同じ場所をぐるぐる回っているような構成です。いったいどうしてこの作品を好きになれるのでしょうか。

実は私がこの作品をもう一度見返してみよう、と考えさせたのはつい先日読んだ韓国の若い作家クギ氏の『キリング・ストーキング』でした。

この作品はそれこそ極めつけの王道と言っていい『レイプBL』です。

その暴力性は『残酷な神が支配する』どころではない正気を失ったサイコパスレイプなのですがその作品に「何故か」どっぷり入れ込みはまり込んだ私は突然『残酷な神が支配する』の読み方の『パスワード』を手に入れた気がしました。

そのパスワードはなんなのでしょうか。

もしかしたらほんとうにただの「レイプBL」というワードなのかもしれません。

かつてむしろ好んで読んでいたはずの設定ものをある時から忌避するようになった私は再びそのキーワードを手にすることで『残酷な神が支配する』を読むことができるアプリをもう一度再ダウンロードできたのかもしれません。

そのパスワードを思い出させてくれたのがクギ作『キリング・ストーキング』だったというわけです。

 

 

続きます。

『道成寺』川本喜八郎


【道成寺】動畫(川本喜八郎1976年作品)

ツイッターでこの動画の存在を知りました。

というか実をいうと『道成寺』の名は知っていても物語がどういうものなのかをよくは知らなかったという始末です。

安珍清姫』でも知られている『道成寺』ですがこの動画を教えてもらって初めて内容を辿った私でした。

 

(なんか鐘の下に若い男が隠れていてきれいなお姫様がその鐘の上に乗っかっているという歌舞伎の一場面としか覚えていませんでしたのです)

 

ツイッターで教えてくれた方は「必ず戻ってきます」と嘘をつかれた清姫が恋した案珍を探し求めて走っていく場面を切り取って「殺意を感じる場面」と題されていました。

 

美しくしとやかな姫が裾を乱して走り続けていきます。心にはただ約束を交わした愛しい男性・安珍を探し出す執念のみが存在するのです。

履いていた草履も脱げてしまい人形の白い素足に血がにじむのです。

ついに安珍を見つけた清姫は(人形なのにもかかわらず)ハアハアと大きな息をつぐのです。安珍を見つめる清姫の視線に引き寄せられます。

恐ろしい美しさに見入りました。

 

たまらず全編を知りたくてこの動画を見つけました。

 

安珍清姫が一目見てはっとする美しい僧侶でした。

老僧ののお供をして旅をする道程で清姫の住む館に一夜の宿を頼むのですが迎え入れた清姫安珍の寝こみを襲うという行動をとるのです。

女犯の禁がある僧侶として安珍は抵抗するのですが清姫はなおも縋り付きます。

仕方なく安珍は帰路に立ち寄ることを約束してその場を逃れるのでした。

 

そして安珍は約束を反故にしてしまうわけです。

身の危険を感じての言い逃れとはいえ僧侶として約束した言葉を無下にしてしまうのはあまりにも考えが足りないと思われます。

そこが若き僧侶の未熟さなのでしょう。とはいえ子供でも約束の重要さを認識していることはあるのですからやはり美貌の安珍にはそれまでにもそうした経験(迫られて逃げる)があったのかもしれません。

約束を信じた清姫の執念、鬼になり龍にまでなった清姫が哀れに思えます。

 

もちろん女に襲われひどい目に会う安珍のほうに同情する人もいるでしょう。この物語はどう思うかの試験紙のようでもあります。

『アンダードッグ 二人の男』イ・ソンテ

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マ・ドンソク目的で鑑賞。実はマ・ドンソク初鑑賞です。

つまらなかったら途中でやめようと思っていたのですが、意外にもとても面白く最後まで観てしまいました。

後で知ったのですがドンソクさんではなくもう一人の「男」であるジニルを演じたミンホさんがおおかたの目的の映画だったのですね。なにもかも知らないまま観ていました。

とはいえ私はマ・ドンソク目的でした。

ツイッターなどでマ・ドンソクさんの雄姿を見かけて以来気になっていました。どんな方だろうかと思っていたのですが噂にたがわない男振りでした。

映画自体は確かにアイドル主演映画らしい単純な構成なのですが日本映画のイメージからするとかなり本格的にハードで演技もかなり良かったのではないかと思います。

特に殴り合い場面が激しく血が流れる上に回数も多くほとんど殴り合いでできている作品のようにも思えます。敵役の若者もクール系イケメンでなんだろうイケメン同士の殴り合い&イケメンvs太目おっさんの殴り合いで血を流すシーンがカッコ良い目的の映画なのでしょうか。

ジニルの恋人ガヨンも魅力的な少女でふたりの純愛が古典的で良く飽きずに最後まで観れたのですが終わってみるといろいろ残念な思いも浮かんでいましたw

 

原題『두 남자』も『二人の男』という意味のようですのでこの映画はジニル(ミンホ)とヒョンソク(マ・ドンソク)ふたりの男の生きざまに焦点を当てているわけです。

それならばその二人の男の対比をもっとくっきり描かなくてはタイトルの意味がありません。

ジニルが大切なのはガールフレンド、ヒョンソクにとっては娘、という対比にしているようでもありますがいまいちぼんやりしています。

むしろガヨンを中心にふたりの男の愛情の形を描いたほうがわかりやすかった気もしますがマ・ドンソクのイメージとして年若い女よりも自分の娘をかわいがる親父にしたかった(そして恐妻家である)という気持ちが作品をぼんやりさせてしまったようです。

いや、どちらもできると思うのですが。

 

などというような改善策を考えていくときりがないほどになりそうなのでむしろこのままでいいのかもしれませんw

私はなかなかに楽しめましたし良い映画だと思います。

 

 

『アクロス・ザ・ユニバース』ジュリー・テイモア

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好きで何度も観ている映画です。

めちゃくちゃ好きでこんなに楽しく陶酔感のあるミュージカル映画も少ないと思うのですが、なんだかあまり有名でないような気がするのですが、何故なのか。もっとみんな観て陶酔しよう。

 

全編ビートルズの歌だけで一つの物語にしていきます。英語理解者ならまた違うのかもしれませんが私のような英語不能者にはこのような解釈があて物語になるのかと初めて観た時から衝撃でした。

主人公と美しい女性とのピュアな恋心もとても共感できてしまうのです。

 

出演者たちが歌っている、というのも凄い。

特にプルーデンスが歌う『I Want To Hold Your Hand』にぞっこんでした。

こんな歌い方があるのかと。

 

そしてライブ歌手セディが文句なしにかっこいい。

監督が女性だからなのか女性の歌が特に心に残ります。

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ああ、多くの人にこの世界を味わってほしい。

 

友情と恋愛と反戦がこめられていてちょいサイケデリックで狂ってて最高です。

 

『鬼はさまよう』ソン・ヨンホ

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昨日の『殺人者の記憶法』の上質なディナーと違ってこちらはいかにもな韓国郷土料理の風味でした。美味くて飯が進むのですが強烈に辛い、というやつです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

 

残酷な殺人、執念の復讐、深く強い人情、熱い夫婦愛、鍛え抜かれた男性の肉体、悪い奴は絶対に許さない信念が強烈に描かれていきます。

特にガンチョン(パク・ソンウン)の暴力演技は韓国俳優の独壇場ともいうべき凄まじさで迫ってきます。幼少期に観たらトラウマになってしまいそうです。

この鬼がさまようのを誰かが止めなければならないという義弟の意志を受け取った義兄がついにそのとどめを刺す、という結末のためにどれほどの犠牲があったのか、が描かれていくわけです。

とはいえやはりこの映画は壮絶な鬼の所業、人間離れした肉体の強さを描きたいがために作られたのには違いなくしつこいですがそこにも『キリング・ストーキング』のオ・サンウの存在を感じてしまいます。

犠牲者となった女性たちが受けたであろう残酷な場面は他の映画ではエロチックシーンとして見せ場になったはずですがこの映画作品ではその目的は果たされていません。

主人公刑事の(犠牲者のひとりである)妹が妊娠していたという説明で惨たらしさと悲しさを加える演出はありますが映像としてはほぼ男同士の殺し合いに割かれています。

 

ということであればもともとこの鬼が男ばかりを狙って殺す、という設定のほうが納得できるようにも思えます。単純に鬼が気づいていなかったのかもしれません。

刑務所のシャワー室での殺人で目覚めたようにも感じます。

その点ちょっと残念な気もします。