続けます。
以下萩尾作品と大島弓子『バナナブレッドのプディング』のネタバレしますのでご注意を。
パスワードを手に入れて再読した『残酷な神が支配する』は少しずつ頭の中に入ってきました。
この作品で現実と違ってあり得ない存在は(誰が見てもそう思うでしょうが)イアン・ローランドです。
現実に傲慢なグレッグのような男が愛らしいジェルミのような少年を言葉巧みに支配して性奴隷にしてしまう事態は頻繁に発生しているといっても過言ではないでしょう。
しかもジェルミの母親サンドラやナターシャのようにそれを知っても言えずにいる状況もよく聞くものです。
しかしイアンのようにその事態を知ってジェルミのような被害者をここまで入りこみ自身を犠牲にしていくことは現実にはほぼあり得ないことだと思います。
イアンはもともと異性愛者であり(同性愛の経験はあったとしても)ますがたとえジェルミが女性で普通にイアンと恋愛関係になったとしてもここまで自分を犠牲にできる男性は想像しがたい存在です。
ここでイアンの設定が疑問になってもきます。
イアンはいわゆる完璧な男性です。裕福で金に困る要素がまったくない。彼自身が大学に行かず就職しなくても食べていけるだけの財産はあるように思えます。
長身でハンサムで頭脳明晰運動能力抜群ボクシングを好み威圧的でプライドが高いいわば父親の遺伝子を強く感じさせます。
しかしそれらの条件があるからこそジェルミを救うだけの余裕があるわけです。
私が最初に疑問を感じ好きになれなかったのはそこで彼のジェルミへの自己犠牲は彼がすべてにおいて裕福だからできたことでありもしイアンが貧乏でジェルミを保護することは彼にとって困難なことであったら彼はどうしたのだろうか。
萩尾氏はなぜイアンの設定をここまで引き上げてしまったのか。少女マンガという枠内なので華やかにしたかった、ということなのか、もし彼の状況がもっと一般的なものであれば私はもう少しイアンに共感しやすかったのですが彼はジェルミを救うという犠牲を払ってもほとんど生活を崩す心配はないのです。
それとも生活うんぬんを抜きにしたジェルミの魂の救済、という部分にのみ焦点を当てたいためにこの設定にしたのか、私にとってこの設定は今もなお疑問符です。
それでもイアンという一人の青年がジェルミという傷ついた魂を救済するために自ら死に近づくほど苦しみ抜いていく過程はやはり壮絶であり裕福といった背景などどうでもよくなっていくのは確かです。
そういう疑問に悩んでいるうちに思い出したのが大島弓子『バナナブレッドのプディング』でした。
1979年6刷の単行本で読んだこの作品には『残酷な神が支配する』の要素がすでに描かれているのではないでしょうか。
読み返してみるとあちこちが似通っていて萩尾氏はここから発想を進めていったのでは、とすら思えてきます。
おかしな話ですがまずイアンと御茶屋峠の容貌がとても似ています。
長身で長髪の大学生、という他愛もないことですが。
ジェルミにあたるのは女子高生の三浦衣良。彼女は不安定な精神に苦しめられている少女、という設定です。
姉の結婚(ジェルミは母の結婚)に苦しみ(夜中にトイレについてきてもらえないから、なのですが)友人の御茶屋さえ子に「うしろめたさを感じている男色家の男性をボーイフレンドにしたい」と願い出ます。
さえ子は仕方なく兄・峠にその役を演じてもらうのですがその相手役に実際の男色家である奥上大地(サッカー部のキャプテン)を頼むとその恋人である大学教授が勘違いで嫉妬し奥上大地を一晩中酷い目(詳しく描かれていないが体中傷だらけで腕にもみみずばれが)にあわせるという話になります。
サディストの教授の外見がグレッグに似ていて奥上大地はジェルミに似ているのが奇妙なほどです。(細身でふさふさ巻き毛というだけですが)
衣良の父親が絵描きであるのもジェルミが途中から美術に進んでいくのと共鳴しております。
しかしなんといっても両作品の共通点は両親に追い詰められて精神が歪み「人殺し」になったと思う主人公が一人の青年(長身で髪の長い)によって魂が救済されていく過程を描いている、というものです。
この
両親から追い詰められ
「人殺し」になったという苦しみ
はまったく共通しています。
ジェルミは義父からの性暴行と母親の無視
衣良は「あの子はちょっとおかしいから精神鑑定してもらおう」と言われている
という違いはあるのですがそのことによってこの少年と少女は同じように
「自分は人殺しだ」
と悩み苦しむのです。
そこに登場するのが
イアン・ローランド
御茶屋峠
という長身長髪のイケメン大学生(イアンは最初は高校生ですが)
です。
イアンは長い葛藤の繰り返しの果てに死に近づくほど苦しみます。
御茶屋峠は衣良に「みんなから嫌われたらいい」と思われたりナイフで頬を傷つけられたりという可愛らしい苦しみを受けます。そして「一緒に暮らそう」というと衣良から「でも私はいつ鬼になって峠さんを殺すかわからない」と泣かれます。
峠は「さすがにナイフでグサリはいやだけどそんな時はさっと身をかわし台所でミルクを温めて君に渡す。そうすると君はそれを飲んでまた明日ね、というだろう」というのです。
私はこの峠の言葉がイアンの苦しみのすべてだと思います。
『バナナブレッドのプディング』もラストですべてが解決するわけではなくこれから峠と衣良の幸福をさぐっていく生活が始まることを予感させるだけです。
『残酷な神が支配する』もこれからふたりが何度も生と死のはざまをゆきつ戻りつする、という言葉でふたりの人生を予感させます。
壮絶な長編物語を描き切った萩尾望都作品もすばらしいですが、大島弓子の一巻で同等と言って良い物語を描き切った才能もまた賛辞されていいのではないでしょうか。
まだまだ続きます。