ガエル記

散策

「100分de萩尾望都」その1『トーマの心臓』

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録画やっと鑑賞しました。

内容知らなかったので昨日ツイッターで「萩尾望都といえば『ポーの一族』『トーマの心臓』だろうけど私は『バルバラ異界』が最高傑作だと思います」と書いたのですが、ちゃんと番組内で取り上げられていましたね。

中条省平さんありがとうございます。そのほかの批評もどなたも素晴らしかったです。以前は少女漫画というと軽んじられていたり萩尾望都作品などは明らかな勘違い報道されてしまったりしていた記憶があるのでちょっと不安を感じていたのですが「100分de名著」さんでそのような心配は杞憂でございました。

 

さてさて先日は山岸凉子『レベレーション』も論じたことですし今回は私も「100分de萩尾望都」に加わってみようかと思います。

 

まずは小谷真理氏が語られた『トーマの心臓

なんだかんだと言いましてもやはり私にとって萩尾望都作品でこれほど何度も読み返し考えさせられた作品はないのですね。

深い考察は小谷氏がされていますので私が考えたことを書いてみますととにかく萩尾望都の作品がどうしてもっとほかのメディアで取り上げられないのか不思議というより悔しくてしょうがありませんでした。

この番組でも男性陣が「それまで少女マンガを読んでいなかったのが萩尾望都によって目覚めさせられた。少年マンガにはない深い描写がそこにあった」ということを繰り返し語られていますが、萩尾望都が日本国内でもっと多くの人々に認知されなかったことは取り返しのつかない損失だったと思っています。もしくはやはり日本人の知性は萩尾望都が理解できないレベルのもので仮に広められる機会があったとしてもそれを受け止める力はなかったかもしれない、とも考えられてしまうのですが。

 

というのは日本の様々な作品、小説・映画・ドラマなどが海外のものに比べどうしても浅薄なテーマしかなく構成・物語も深みがないのは萩尾望都という教師を選択しなかったからではないかと思っているからです。

 

小谷氏が言われていた『トーマの心臓』はSFなのです、という指摘を納得できなければ上の提言も納得できないだろうとは思います。

一つのテーマを現実的に描写していくにはSF書きの才能を持っていなければなりません。

萩尾望都ほど日本でリアルなSFを書ける作家はいません。(萩尾氏が今は亡き小松左京氏の小説を下敷きによくされているのはやはり小松SFがリアルだったからでしょう)

異国を舞台にして自分とは違う性別である少年たちを登場人物として生み出した物語で大人の読者をもその世界に引きずりこめたのは彼女が異世界を生み出す力があったからに違いありません。

とはいえ日本では(ほかの国でもそうだろうとは思いますが)舞台が日本であり登場人物が日本人でないと一般受けはしないという枷がありました。

萩尾氏は自らも「遠い世界の話でないと描けないのです。身近な話が書けない」と言われていた記憶があります。

その点においても萩尾望都が一般に受けることはあきらめるしかないのかもしれませんがそれでも私は「なぜ萩尾望都を教科書にしないのだ?」と叫びたいのです。

 

トーマの心臓』の中でもっとも皆に知ってほしい個所は「母の死を知って学校を飛び出したエーリクをユリスモールが呼び戻しにいく」ところです。

子供たちを守るべき寄宿学校を舞台にしたこの作品の中でこの個所はふたりの主人公が外へ出てしまう、危うい状況を描いています。

構成としてはユリスモールがエーリクを迎えにいくのですがこの短い期間にエーリクは冷静すぎるとも見える優等生ユリスモールの秘密をしかも恐ろしい秘密の鍵を知ってしまうのです。

学校を無断で飛び出し帰宅していたエーリクは「気に食わない委員長」でしかないしかも自分を嫌っているとしか思えないユリスモールの姿を見て「出ていけ」と茶器を投げつけます。

たまたま居合わせた弁護士はエーリクの言動を叱り「きみはもっと勉強しなければならない」と忠言します。

仕方なくユーリと学校に戻るはずがアクシデントでふたりは見知らぬ場所で過ごすことになりそこで奇妙な男に出あいます。

彼の名はサイフリート。彼の出現でユリスモールは感情を爆発させ話しかけたエーリクを怒鳴りつけてしまうのです。ここではまだエーリクはわかりませんが彼こそがユーリの苦悩を生み出した元凶なのでした。

その後エーリクはユーリの謝罪を受けて彼の実家に泊まる羽目になるのですがそこで見たのは家族内でのユーリへの人種差別による立場のなさでした。

それとともにエーリクはユーリのやさしさにも気づきます。そして学校へ戻ることを決意します。わがままで子供っぽいエーリクは一夜で少し成長するのです。

 

もし映画にするのならこの部分を主軸にして物語を再構築できるのではないのでしょうか。

日本に置き換えることも可能に思えます。

以前作られた実写映画は「美少年ばかりが登場する少女マンガ」であることに着目したもので「美少年を少女に演じさせる」という方向性だったのですが私にとって『トーマの心臓』はそうした不思議世界を面白がるようなものではなく人間の成長を描いた物語なのです。

夏目漱石『こころ』が時代を経ても若者たちのテキストになるように萩尾望都の『トーマの心臓』もそうであっていいのではないかと思えるのです。

 

もっと早く『トーマの心臓』は語られるべきでした。

この中から多くのことを学ぶべきでした。

今からでも遅くはないのです。

そうしないことはあまりにも許されない損失に思えてなりません。

 

https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2021010206900