ガエル記

散策

『【不動産ミステリー】変な家』雨穴

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私もこの動画で落ちてしまったのでやはりこれを一番先に紹介せねばならないでしょう。

今思えば雨穴さんとしてはむしろ一般受けする作品なのかもしれませんw

 

惹かれた原因の一つとしては私が間取り大好きだからかもしれません。

同じ理由で山岸凉子著『ケサランパサラン』も大好きです。間取り好きな方は是非ご一読を。

とはいえ間取りを意識するようになったのは(好きだったのは以前からでしたが)最近なのでこの動画を観た時は「まさに私のための動画!」とさえ思ってしまいました。

 

間取りというのは魅力的です。

特に日本の家は狭いのでその狭い空間にいかにいろいろな工夫をするかが求められそこに不思議が生まれてしまうように思えます。

 

このミステリーは近々本にもなるそうです。楽しみです。

 

雨穴さん

久しぶりに物凄く人を好きになりました。この場合の「人」は作品的な「人」です。

 

つまり俳優とか歌手とかまたはマンガや小説の中のキャラクターなどを好きになって夢中になって作品を追いかける、ということほど楽しく幸福なものはありません。

その人の世界に浸ってその人と感覚を共有できる喜びは現世にはあり得ない快感です。

かつてはそんな法悦境に遊んだ日々が多くあったのですが寄る年波のせいなのか感覚が鈍ってきたのか誰かにぞっこん惚れ込み落ちてしまう気持ちを無くしてしまったうようです。

 

その胸の痛くなる思いを再び抱かせてくれたのが「雨穴さん」でした。

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うわー好きでたまらない。

どうしよう。

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このセリフだけはよく書く気がしますが「いったいなぜ今まで気が付かなかったのか」

というかYouTubeに紹介されて知っただけで思えば「デイブ・フロムショー」のデイブさんとアリさんも同じ経緯なのでなんだい私はYouTubeに振り回されているだけなのかもしれません。あの時も取り憑かれたように過去動画を見まくりました。

 

今回の雨穴さん動画は数はそこまでないので追いかけるのは早くできそうです。

それになんといっても雨穴さんの動画は「作品」なのでその快感は高くなるのです。

かなりの数を追いかけましたがどれも素晴らしくて嬉しさに泣きそうになっています。

ここしばらく日本のクリエイターに失望していましたが雨穴さんを知ったことで他はどうでもよくなりました。

今はただこのような素晴らしい世界を創造できる人に出会えた喜びとその世界に遊べる快感を楽しませていただきます。

ではまた行ってまいります。

 

 

『メッセージ』ドゥニ・ヴィルヌーヴ

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原題は『Arrival』です。意味は「到着(すること)、到達、到着した人、出生、新生児」だそうですがそのとおりの映画でした。

 

言語の物語であるのに言語が間違っているタイトルを選んでしまう、というのは外国映画を日本が上映する時の恒例と言ってもいいものですがさすがにがっくりします。

 

私は原作小説は未読で映画を観ました。

とても興味深く繊細な映画で楽しめました。が、原作を先に読んだ人たちにとってはかなり不満が残るというより原作の良さをほとんど失ってしまったと言っていいほどらしいのです。

これについては私は得をしました。

原作を知らないために映画を楽しめたのですから。

これから原作を読んでみてその違いを確かめようと思っています。

 

さて映画の身についての感想になります。ネタバレしますのでご注意を。

 

 

原作読み者にとっては不満だったらしい吹き付けの墨絵文字も私にはとても好感の持てるアイディアでした。

言語学者の女性が世界を救うわけですが彼女が英雄と称えられることはなくたぶん誰も彼女の名前を知ることはないのでしょう。

そして彼女にとって重要なのは世界を救ったことよりもかけがえのない一人娘の運命を自分が知っていてそれでも選択したことだったのです。

 

少し前に一月万冊で安冨歩教授が語っていたことが忘れられません。その言葉を聞いてから私の映画を見る目がまた変わりました。

アメリカ映画というのは必ず最後に主人公が〝選択”をする」

つまり爆弾に赤いコードと青いコードがつながっていてどちらかを切ると爆発しどちらかを切ればそれを阻止できる、しかも10秒以内に決めなければならない、というような場面が必ずある、というのです。

 

衝撃でした。数えきれないほどアメリカ映画を観てきて確かにそういう場面を何度も観てきたはずなのにはっきりと意識したことがなかったのです。

それでいえば日本映画は〝選択”をせずなんとなく運命に巻き込まれていく、というタイプの物語が多いように思えます。

主人公はそれに逆らえなかった逆らえるすべもなかった、というやつです。

 

しかし現実はどうでしょうか。

なあなあの日本でさえ、人は必ず何かを選択しなければなりません。

どの仕事に就くか、誰と結婚するか。

たしかに昔なら親の言う通りに働く親の決めた人と結婚するのが運命でそれに逆らうすべは親不孝だったのですが今は誰もが自分で決めなければならないのです。

さて気に入らなければ離婚するのか、では子供は産んだほうがいいのか。

 

本作の主人公ルイーズは娘が早く死んでしまう未来を知りながらその道を選択しました。

それを知った夫は彼女に絶望して離れていきます。

でも私は多くの人が彼女に共感するだろうと思うのです。

 

宇宙の果てから来た生命体との交流、世界戦争になる状態で主人公がなにより大切だったのは自分が娘を産み育てる短い時間だったのです。

 

 

 

『ゾディアック』デヴィッド・フィンチャー

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フィンチャー『ゾディアック』が好きでどうしようもない。

冗長だとか実話のために解決しないままなのでがっくりする、とかいろいろ悪口も多く書かれてしまう本作ですが、私としては2時間40分どころかもっと長く観ていたいし世の中に解決することなんかあるのかい、というのをわからない人がそういう感想を持つのだと思うだけなのでした。

 

ジェイク・ギレンホールが演じる主人公グレイスミスがマンガ家なのも凄くキュートだし彼自身がとても可愛いのももちろん魅力のひとつです。

そのうえ映画自体のとんでもない魅力に対して長すぎるとか(いや短すぎる私としては)解決しないとか(いやすでに私としてはこれ以上ない正解です)どうでもいい話なのです。

 

ネタバレします(すでに少しした)がご注意を。

 

 

 

 

この映画の魅力は映画と同じくらいかそれ以上にだらだらと話していくしかない。

なんといっても絵がとても美しい。

湖畔で恋人たちが殺される場面は壮絶でありながら整然とした静かな背景が逆に異常な残酷を感じさせます。

最近のこうした連続殺人事件映画は過剰に猟奇的な嗜好(死体に奇妙ないたずらをするとか、殺人方法自体が奇怪だとか)が多すぎますが本作はいわば「あたりまえ」の殺し方しかしていません。

それは殺し方よりもゾディアックの暗号による手紙に注目させる手法ではあるとしても私には非常に「好意が持てます」

 

解決しない、という点についてはすでに述べましたが人生ですべてが解決するということはありません。

恐怖は常にあり消えることはないのです。

 

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本作はこの3人の男の人生を描いていきます。

主線はグレイスミス。マンガ家、というはっきりいってこの連続殺人事件にまったく関係ない男が事件に溺れていき自ら命の危険を感じるところにまで行くのです。

同時に妻子にも危険を感じさせてしまうのです。

 

第二はトースキー刑事。警察なのですから通常は彼が主人公でありそうですがこの物語では説明役としての配置です。

私は彼の話声が好きです。

第三はグレイスミスの同僚でゾディアックから脅迫を受けることになるエイヴリー。

そのためではないでしょうが最初目立っていた彼は物語から外れていきます。

 

本職であるトースキーも本職であるからこそ事件から離れしがないマンガ家のグレイスミスだけがゾディアックにとり憑かれ離れられない人生を送ることになります。

 

この描き方は実際警察でも記者でもない観客からすればもっとも共感できる形なのではないでしょうか。

マッチョでもなく暗号を解くのが得意、という以外はそこまで特別な頭脳でも超能力もない主人公が怖ろしい事件にのめりこむ本作に共感しないはずがない、と私は思ってしまうのですが。

 

ところでマンガ家、という役どころのせいなのかジェイクがディズニーのキャラクターに見えてしょうがないのです。

かなりの長身なのになぜか小柄に見える。

目が大きくてぎょろりとしてるのがキャラクターとしか思えなくて実写なのにアニメを観ている気になってしまうのです。

そう思っていると全員アニメキャラに見えてきました。

これもフィンチャーのマジックなのでしょうか。

 

 

 

 

『華氏451度』100分de名著

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www.nhk.or.jp

 

おもしろかったです。

一回目に指南役の戸田山和久氏が「映画で大好きになったんだけど原作は好きじゃない」という衝撃の告白をされたのが逆に気になってしまうという裏技を出したのが凄い。

最終の4回目でその理由を述べられました。

 

 

つまり

ブラッドベリ著『華氏451度』はエリート主義というのか、テレビばかり見ている連中は皆殺しで読書を続けた人々だけ生き残り新しい世界を再生しよう、という話になっているのは賛成できない。困難ではあるかもしれないがすべての人がやり直せる世界を目指していきたい」

というのが戸田山氏の考えだったわけです。

なるほどその通りです。インターネットが始まる前の私ならすぐさま共感していたかもしれません。少なくとも数年前なら。

しかしコロナウィルス禍にあっても一向に変わろうとしない政府むしろ悪化していく政府と一部ネトウヨ発言をネット上で見ていると

「ああやはり一度破壊されなければやり直せないのだ!」

という思いに駆られてしまうのです。

 

むろんこれは戦争、核爆弾による全滅という意味ではなくとことんまで落ちて経済も文化も何もかもダメになってしまう、という意味での「破壊」ということになります。

というのはそうでなければまた同じことを繰り返してしまうだけだからです。

 

まだ間に合う。今やり直せばそこまで悲惨な状況になる前に立て直せる、という今の状況では足りない、のですね。

悲しいかな、今はまだ政府も国民も「日本は凄いんだから」という奇妙な優越感に支えられています。

この「日本は凄い」の価値観がいったん打ちのめされ儚く崩れ去ってしまわなければ「より良い道」へ進めないのはどういうことなのでしょう。

 

昨日再び「夫婦別姓は認めない」という判決が下りました。選択制別姓、をどうしても理解できないのが日本国民なのです。

「そのくらいいいじゃないか」

という人もまた多いようなのですがその「そのくらい」があれもこれもと積み重なっているのが日本なのですね。

日本、という国の中だけでやっていくことができるのなら他国にあわせる必要はない、という考えが常にあります。

そのために常時日本でしか使用できない製品を作ってしまい外国では使えない、ということを繰り返しているのが日本です。

英語という国際用語をどうしても勉強できない、男女平等という国際基準をどうしても学べない、戦後の長い時間に進まなければならなかったのにむしろ後退したのではないか、とすら思える現状を見ていると国際社会の中で見捨てられ様々な分野で最下位に落ちなければ変化しよう向上しようという気持ちになれないのではないかと思うのです。

もしかしたらそれでも再び鎖国という道を選んでしまうのではないかとさえ考えます。

そうしたら何も考えずに済むからです。

 

もちろん少しずつ変化しよう、向上しよう、としている話もまた聞きます。

しかし政府の歪んだ圧力から身を守るのはあまりにも困難です。

 

華氏451度』やはりこの作品は多くの人を動揺させるのです。

あまりにも自分がいる社会を彷彿とさせてしまう。このとおりになるのじゃないかと動揺しいたたまれなくなるのです。

そして多くの読者は指南役・戸田山氏と同じように「こうなってはいけない」と思うべきなのです。

 

物語、というのは「正しいことあるべきことが書かれている」のではないのです。

「こうなってはいけない」ということのほうがより強く人の心を打つのでしょう。

 

先日『進撃の巨人』を書いた諌山創氏がそう思いながらあの恐ろしいマンガを描いたのだと書かれていました。

進撃の巨人』も『華氏451度』もあってはいけない社会を描いたのです。

それは「こうなったらいいな作品」よりも激しく心を動かします。良いSFは常にそうです。

 

「本を焼く」

単純で身近な題材であるだけに『華氏451度』ほど考えさせられる作品は少ないでしょう。

実際にそれが行われた歴史もあります。

現実に日本で閉館になった図書館の本が廃棄されている、という話も聞きました。

その中にはそこにしかない希少本はなかったのでしょうか。

例えそうではなくてもまだ読める本なら何かの形で貸し出せたりしないのでしょうか。

図書館の印が押してあるから、という理由も書かれていましたがその程度ならそこだけ切り取るとかどうにでもできるはずです。

 

本自体はデジタルへ移行していくでしょう。

それはいいことではなりますが焼却ではなく消去という恐怖もまたあります。

 

私はやはり人間たちが作品を覚えて続く人に話し聞かせる、というシステムにとても惹かれました。

記録しておく以外にこのシステムもまたあってほしいものです。

本を読んでくれる、というアプリを開発した人は素晴らしい。

読み聞かせシステムがもっと発展することを願っています。

 

 

 

 

 

心に響く言葉とはー感謝と恐怖とー

唐突に思い出した言葉があります。

 

「恐ろしい言葉です」「よく選びましたね」

 

これは犯罪を犯した男が長年経った後にある僧侶にその告白をしたのだが直後それを後悔し様々な言い訳をして自分の罪は大したことではないと逃れようとするのです。

僧侶は立派な人物と思えるその男の矛盾に戸惑いながらも聖書の言葉を彼に示すのです。

 

という場面を思い出したのですがそれが何の作品のどういう言葉から反応したのかは思い出せず困りました。

 

なぜそんな言葉が突然浮かんだのかというと会話をしていた時

「ある女性が上司の言葉に感動したというのだけどその言葉は最近出た本から取ったやつなんだよ」

という話になったのです。

つまりその「上司」が「オリジナルで作った言葉でなく他人が書いた本から取ったのだから大したことはない」というのですね。

しかしこれは少し違うのではないかと思ったわけです。

 

言葉というのは聞いた人がどう受け止めるかで違ってくるわけです。

その女性が感動した言葉も別の人が聞けば何も思わない場合もあるし逆に怒り出す場合だってあるわけです。

その人の状態に合った言葉だったからこそ感動したわけです。

それはその上司が読んだ本の言葉がちょうどその女性の状態にぴったりだと思ったからこそ伝えたのかもしれません。それならやはりその上司は感心されてしかるべきです。

もちろんその上司には深い考えはなく単なる偶然でぴったり合っただけかもしれませんがそれはそれで運命に感動した、ともいえるでしょう。

他人の本からの盗用とまでは考えなくてもいいように思えます。利益を得たわけでもないのですから。

 

なにかの歌詞にせよ、台詞にせよ、文にせよ、ピタリとはまるものと出会うのは一つの奇跡ともいえるのではないでしょうか。

 

 

さて冒頭の「突然浮かんだ言葉」が何かを考えてみました。

この言葉は後に続けた「上司からの言葉に感動した女性」とは真逆のぞっとした言葉、という表現です。

 

かなり劇的な深淵を表す言葉のようですし聖書からの引用なら外国のもので犯罪の告白となれば・・・と辿っていったのがドストエフスキーでなんとなく『罪と罰』というより『カラマーゾフの兄弟』かな、と思って手に取り、僧侶となればゾシマ長老か、ということで案外早く見つけることができました。

殺人を犯した男がその後幸福な家庭をもつことができたのですがかつて犯した罪の意識に耐え切れず若き頃のゾシマに告白をした後今度は自己弁護をはじめ「私には守るべき妻子がいるのです、私の運命を決めてください」と叫びます。

ゾシマは「行って告白なさい」と言った後聖書の言葉を示します。

 

「よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書第十二章二十四節)

 

彼はそれを聞いて「しゃべるだけだからあなたは楽ですよね」と憎しみに満ちたせせら笑いをします。

そこでゾシマがさらに示したのが冒頭の言葉を引き起こしたものです。

 

「生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(へブル人への手紙第十章三十一節)

 

これで彼は「恐ろしい言葉です」「一言もありません。よく選びましたね」となったのでした。

その後彼は一度出ていき三十分後に戻ってくるのです。

そして2分ほど座り込んでからゾシマに接吻し「覚えておいてくれたまえ、君のところへ二度も来たってことをね」と言って出ていったのでした。

 

この二つの聖書の言葉はかなり有名なものだと思いますがドストエフスキーは実に効果的にこの言葉を使ってサスペンスを仕上げました。

彼が戻ってきたのはゾシマを殺すためだったのです。

そして罪の告白をした彼は魂が救われますがその重さに耐えかねてか亡くなってしまうのです。

その前に彼はゾシマに「自分の罪を知っているのは君だけだと考え君を殺しに戻ったのだ。いいかい、今まで君はあれほど死に近づいたことはなかったんだよ」と伝えたのでした。

この表現もよく思い出します。

ということは私はこのエピソードに物凄く衝撃を受けていたわけですが、そのくせ出典を忘れていたのでした。

今度は記憶するためにここに書いておきます。

 

しかもさらにこの物語が凄いのはこのエピソードによって若きゾシマ長老は彼の妻と町の人々から「彼を苦しめた」と激しく攻撃責められてしまうという展開になることです。

彼の魂を救うか、町の平安を保つか、それもまた考えねばならないのです。

 

なお出典は『カラマーゾフの兄弟』(中)原卓也訳、新潮文庫昭和五十四年版、第六編ロシアの修道僧 七十六頁(D)神秘的な客 です。

現在の性認識と源氏物語 その4

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既にタイトルとは離れてきていますがそのまま書き続けます。

この話題は今回で最後にするつもりですがそのヒロインは浮舟です。

田辺聖子著では『霧ふかき宇治の恋』に登場する浮舟はその生い立ちもあってやや軽んじられる存在です。

薫の君と匂宮というふたりの美貌の貴公子に同時に言い寄られますがふたりの男たちにとって浮舟は正妻ではなく軽い愛人でありむしろライバルであるお互いの敵愾心を強く感じます。

しかし貴公子たちの駆け引きの間にいる浮舟は真剣に悩み苦しむしかありません。

ついに浮舟は「世間の物笑いになるのならいっそ死んでしまおう」と極端な決意をします。「薫様にも宮様にもやがて疎まれ捨てられ落ちぶれてさすらうかもしれぬ」とすでに彼女は察知しているのです。

同時に浮舟は親より早く死ぬことが一番惨い親不孝になるのを案じてもいます。それほど深い学問をした姫君ではなくとも仏の教えがいつしか身についていたのでした。

 

浮舟はその後川に身を投げますが死ぬことはかなわず尼僧たちに助けられ命を取り留めます。

今度こそはと出家を願い出ますがあまりの若さと美しさにに僧侶も気後れしてしまうほどでした。それでも浮舟は尼僧となりますが今度は薫の君に見つけられてしまいくどくどと恨みつらみを告げられてしまうのです。

 

浮舟の物語は読んでいてまったくじれったくイライラとするものです。

彼女自身「私はどうしてこうも思いきりがないのだろう」と泣いてばかりいるのです。

しかしその優柔不断さがかえって現在の女性を思わせてしまいます。

いわば彼女は紫の上や女三の宮のように光源氏のような保護者の男性にこう言われたからといって素直に「はい」とそのまま従うことができず迷っているのです。

この迷いこそが言われたままに動いていたかつてのヒロインと違うのです。

戸惑い迷いながら浮舟はじりじりと自分の道を歩んでいきます。その行動は他人から見ると決して褒められることではなくいつも叱られたり呆れられたり慰められたりすることばかりなのです。

一つ一つの出来事にいつも驚きへまばかりしている浮舟。「あなたって方は」とたしなめられてばかりいるのです。すぐに決意できずうじうじと(もしかしてそういうダジャレ?)思い悩みまた後悔するのが浮舟なのです。

 

その浮舟が最後に再び薫に「あなたは酷い仕打ちをした」と叱責されそれにすぐ返事が出来ずまた怒られます。ほんとうにむかつく女性が浮舟ですが誰もが彼女と同じであるのではないでしょうか。

匂宮はとっくに別の恋を探し始め、薫はわけのわからない浮舟のやり方に呆然唖然として「ほかの男でもできたのか?」と的外れな妄想を始めます。

そんな夜更け、浮舟はやっと恋の道と決別し仏道に入る決心を固めたところで物語は終わります。

 

紫式部が書いた『源氏物語』のなかでたびたび「出家」という言葉が出てきます。

もちろん男性もしますが女性にとってこの言葉は最後のよりどころとなるようです。

しかし光源氏にすべてを拘束されていた紫の上はこの「出家」の願いすらかなえてはもらえないまま死んでいきました。

一方冴えない存在だった女三の宮は源氏に愚痴を言われながらも颯爽と出家してしまうのです。

「出家」とはもちろんこの俗世を捨てて仏門に入ることです。

女性の象徴であり当時女性の美そのものだった長い黒髪を切り落としてしまうのは「性を捨てる」ことであり男性から女性として扱われない、ということなのでしょう。

 

しかし文字だけ見ると「出家」が「家を出る」なのは特に女性として深い意味があるように思えます。

家の中にいることこそが女性としての価値であるのなら家を出た女はどんな価値になるのでしょうか。

源氏物語』の中で家の中にいる女性は男性に好意を持たれ性交の相手となり子供を産み育てる存在としてのみ価値を認められます。

末摘花は顔が醜いために源氏にとって性の相手としての価値がなく花散る里は性の相手としての価値はないが優しい性格のため話し相手と子育てのため価値を認められます。

明石の君はすべて優秀なので性の相手としても合格で子供を産みます。

葵上は傲慢で好意は持てないが他は優良なので子供を産みました。

紫の上は子供を産めませんでしたが他はすべて最上級なので女性でなくなってしまう出家を認めることは源氏には許されないことだったわけです。

玉鬘はすべて優秀な上に行動力もあったので源氏以外の男性と関係し子供を産みます。

 

そして光源氏以後の物語のヒロインとなった浮舟は男性が求める性の相手として素晴らしい魅力を持ちながら「出家する」という男性がもっとも嫌がる行動を果たしてしまうのです。

狂おしい悩み苦しみの果てにですが。

 

現在に当てはめればこの「出家」というのは「独身のままで働く」という選択に近いようにも思えます。

ネットでは「男に仕えない女」に対する男性陣の愚痴が多く見られます。

最近では「わきまえない女」という言い方も出ました。

 

浮舟はまさしく「わきまえない女」です。

誰もが憧れる匂宮からの求愛から逃げ出し、人格者薫の君の助言も断ってしまいます。

これほど高い地位の男性に付き従わない女なのが浮舟なのです。