ガエル記

散策

『メッセージ』ドゥニ・ヴィルヌーヴ

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原題は『Arrival』です。意味は「到着(すること)、到達、到着した人、出生、新生児」だそうですがそのとおりの映画でした。

 

言語の物語であるのに言語が間違っているタイトルを選んでしまう、というのは外国映画を日本が上映する時の恒例と言ってもいいものですがさすがにがっくりします。

 

私は原作小説は未読で映画を観ました。

とても興味深く繊細な映画で楽しめました。が、原作を先に読んだ人たちにとってはかなり不満が残るというより原作の良さをほとんど失ってしまったと言っていいほどらしいのです。

これについては私は得をしました。

原作を知らないために映画を楽しめたのですから。

これから原作を読んでみてその違いを確かめようと思っています。

 

さて映画の身についての感想になります。ネタバレしますのでご注意を。

 

 

原作読み者にとっては不満だったらしい吹き付けの墨絵文字も私にはとても好感の持てるアイディアでした。

言語学者の女性が世界を救うわけですが彼女が英雄と称えられることはなくたぶん誰も彼女の名前を知ることはないのでしょう。

そして彼女にとって重要なのは世界を救ったことよりもかけがえのない一人娘の運命を自分が知っていてそれでも選択したことだったのです。

 

少し前に一月万冊で安冨歩教授が語っていたことが忘れられません。その言葉を聞いてから私の映画を見る目がまた変わりました。

アメリカ映画というのは必ず最後に主人公が〝選択”をする」

つまり爆弾に赤いコードと青いコードがつながっていてどちらかを切ると爆発しどちらかを切ればそれを阻止できる、しかも10秒以内に決めなければならない、というような場面が必ずある、というのです。

 

衝撃でした。数えきれないほどアメリカ映画を観てきて確かにそういう場面を何度も観てきたはずなのにはっきりと意識したことがなかったのです。

それでいえば日本映画は〝選択”をせずなんとなく運命に巻き込まれていく、というタイプの物語が多いように思えます。

主人公はそれに逆らえなかった逆らえるすべもなかった、というやつです。

 

しかし現実はどうでしょうか。

なあなあの日本でさえ、人は必ず何かを選択しなければなりません。

どの仕事に就くか、誰と結婚するか。

たしかに昔なら親の言う通りに働く親の決めた人と結婚するのが運命でそれに逆らうすべは親不孝だったのですが今は誰もが自分で決めなければならないのです。

さて気に入らなければ離婚するのか、では子供は産んだほうがいいのか。

 

本作の主人公ルイーズは娘が早く死んでしまう未来を知りながらその道を選択しました。

それを知った夫は彼女に絶望して離れていきます。

でも私は多くの人が彼女に共感するだろうと思うのです。

 

宇宙の果てから来た生命体との交流、世界戦争になる状態で主人公がなにより大切だったのは自分が娘を産み育てる短い時間だったのです。