唐突に思い出した言葉があります。
「恐ろしい言葉です」「よく選びましたね」
これは犯罪を犯した男が長年経った後にある僧侶にその告白をしたのだが直後それを後悔し様々な言い訳をして自分の罪は大したことではないと逃れようとするのです。
僧侶は立派な人物と思えるその男の矛盾に戸惑いながらも聖書の言葉を彼に示すのです。
という場面を思い出したのですがそれが何の作品のどういう言葉から反応したのかは思い出せず困りました。
なぜそんな言葉が突然浮かんだのかというと会話をしていた時
「ある女性が上司の言葉に感動したというのだけどその言葉は最近出た本から取ったやつなんだよ」
という話になったのです。
つまりその「上司」が「オリジナルで作った言葉でなく他人が書いた本から取ったのだから大したことはない」というのですね。
しかしこれは少し違うのではないかと思ったわけです。
言葉というのは聞いた人がどう受け止めるかで違ってくるわけです。
その女性が感動した言葉も別の人が聞けば何も思わない場合もあるし逆に怒り出す場合だってあるわけです。
その人の状態に合った言葉だったからこそ感動したわけです。
それはその上司が読んだ本の言葉がちょうどその女性の状態にぴったりだと思ったからこそ伝えたのかもしれません。それならやはりその上司は感心されてしかるべきです。
もちろんその上司には深い考えはなく単なる偶然でぴったり合っただけかもしれませんがそれはそれで運命に感動した、ともいえるでしょう。
他人の本からの盗用とまでは考えなくてもいいように思えます。利益を得たわけでもないのですから。
なにかの歌詞にせよ、台詞にせよ、文にせよ、ピタリとはまるものと出会うのは一つの奇跡ともいえるのではないでしょうか。
さて冒頭の「突然浮かんだ言葉」が何かを考えてみました。
この言葉は後に続けた「上司からの言葉に感動した女性」とは真逆のぞっとした言葉、という表現です。
かなり劇的な深淵を表す言葉のようですし聖書からの引用なら外国のもので犯罪の告白となれば・・・と辿っていったのがドストエフスキーでなんとなく『罪と罰』というより『カラマーゾフの兄弟』かな、と思って手に取り、僧侶となればゾシマ長老か、ということで案外早く見つけることができました。
殺人を犯した男がその後幸福な家庭をもつことができたのですがかつて犯した罪の意識に耐え切れず若き頃のゾシマに告白をした後今度は自己弁護をはじめ「私には守るべき妻子がいるのです、私の運命を決めてください」と叫びます。
ゾシマは「行って告白なさい」と言った後聖書の言葉を示します。
「よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書第十二章二十四節)
彼はそれを聞いて「しゃべるだけだからあなたは楽ですよね」と憎しみに満ちたせせら笑いをします。
そこでゾシマがさらに示したのが冒頭の言葉を引き起こしたものです。
「生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(へブル人への手紙第十章三十一節)
これで彼は「恐ろしい言葉です」「一言もありません。よく選びましたね」となったのでした。
その後彼は一度出ていき三十分後に戻ってくるのです。
そして2分ほど座り込んでからゾシマに接吻し「覚えておいてくれたまえ、君のところへ二度も来たってことをね」と言って出ていったのでした。
この二つの聖書の言葉はかなり有名なものだと思いますがドストエフスキーは実に効果的にこの言葉を使ってサスペンスを仕上げました。
彼が戻ってきたのはゾシマを殺すためだったのです。
そして罪の告白をした彼は魂が救われますがその重さに耐えかねてか亡くなってしまうのです。
その前に彼はゾシマに「自分の罪を知っているのは君だけだと考え君を殺しに戻ったのだ。いいかい、今まで君はあれほど死に近づいたことはなかったんだよ」と伝えたのでした。
この表現もよく思い出します。
ということは私はこのエピソードに物凄く衝撃を受けていたわけですが、そのくせ出典を忘れていたのでした。
今度は記憶するためにここに書いておきます。
しかもさらにこの物語が凄いのはこのエピソードによって若きゾシマ長老は彼の妻と町の人々から「彼を苦しめた」と激しく攻撃責められてしまうという展開になることです。
彼の魂を救うか、町の平安を保つか、それもまた考えねばならないのです。
なお出典は『カラマーゾフの兄弟』(中)原卓也訳、新潮文庫昭和五十四年版、第六編ロシアの修道僧 七十六頁(D)神秘的な客 です。