おもしろかったです。
一回目に指南役の戸田山和久氏が「映画で大好きになったんだけど原作は好きじゃない」という衝撃の告白をされたのが逆に気になってしまうという裏技を出したのが凄い。
最終の4回目でその理由を述べられました。
つまり
「ブラッドベリ著『華氏451度』はエリート主義というのか、テレビばかり見ている連中は皆殺しで読書を続けた人々だけ生き残り新しい世界を再生しよう、という話になっているのは賛成できない。困難ではあるかもしれないがすべての人がやり直せる世界を目指していきたい」
というのが戸田山氏の考えだったわけです。
なるほどその通りです。インターネットが始まる前の私ならすぐさま共感していたかもしれません。少なくとも数年前なら。
しかしコロナウィルス禍にあっても一向に変わろうとしない政府むしろ悪化していく政府と一部ネトウヨ発言をネット上で見ていると
「ああやはり一度破壊されなければやり直せないのだ!」
という思いに駆られてしまうのです。
むろんこれは戦争、核爆弾による全滅という意味ではなくとことんまで落ちて経済も文化も何もかもダメになってしまう、という意味での「破壊」ということになります。
というのはそうでなければまた同じことを繰り返してしまうだけだからです。
まだ間に合う。今やり直せばそこまで悲惨な状況になる前に立て直せる、という今の状況では足りない、のですね。
悲しいかな、今はまだ政府も国民も「日本は凄いんだから」という奇妙な優越感に支えられています。
この「日本は凄い」の価値観がいったん打ちのめされ儚く崩れ去ってしまわなければ「より良い道」へ進めないのはどういうことなのでしょう。
昨日再び「夫婦別姓は認めない」という判決が下りました。選択制別姓、をどうしても理解できないのが日本国民なのです。
「そのくらいいいじゃないか」
という人もまた多いようなのですがその「そのくらい」があれもこれもと積み重なっているのが日本なのですね。
日本、という国の中だけでやっていくことができるのなら他国にあわせる必要はない、という考えが常にあります。
そのために常時日本でしか使用できない製品を作ってしまい外国では使えない、ということを繰り返しているのが日本です。
英語という国際用語をどうしても勉強できない、男女平等という国際基準をどうしても学べない、戦後の長い時間に進まなければならなかったのにむしろ後退したのではないか、とすら思える現状を見ていると国際社会の中で見捨てられ様々な分野で最下位に落ちなければ変化しよう向上しようという気持ちになれないのではないかと思うのです。
もしかしたらそれでも再び鎖国という道を選んでしまうのではないかとさえ考えます。
そうしたら何も考えずに済むからです。
もちろん少しずつ変化しよう、向上しよう、としている話もまた聞きます。
しかし政府の歪んだ圧力から身を守るのはあまりにも困難です。
『華氏451度』やはりこの作品は多くの人を動揺させるのです。
あまりにも自分がいる社会を彷彿とさせてしまう。このとおりになるのじゃないかと動揺しいたたまれなくなるのです。
そして多くの読者は指南役・戸田山氏と同じように「こうなってはいけない」と思うべきなのです。
物語、というのは「正しいことあるべきことが書かれている」のではないのです。
「こうなってはいけない」ということのほうがより強く人の心を打つのでしょう。
先日『進撃の巨人』を書いた諌山創氏がそう思いながらあの恐ろしいマンガを描いたのだと書かれていました。
『進撃の巨人』も『華氏451度』もあってはいけない社会を描いたのです。
それは「こうなったらいいな作品」よりも激しく心を動かします。良いSFは常にそうです。
「本を焼く」
単純で身近な題材であるだけに『華氏451度』ほど考えさせられる作品は少ないでしょう。
実際にそれが行われた歴史もあります。
現実に日本で閉館になった図書館の本が廃棄されている、という話も聞きました。
その中にはそこにしかない希少本はなかったのでしょうか。
例えそうではなくてもまだ読める本なら何かの形で貸し出せたりしないのでしょうか。
図書館の印が押してあるから、という理由も書かれていましたがその程度ならそこだけ切り取るとかどうにでもできるはずです。
本自体はデジタルへ移行していくでしょう。
それはいいことではなりますが焼却ではなく消去という恐怖もまたあります。
私はやはり人間たちが作品を覚えて続く人に話し聞かせる、というシステムにとても惹かれました。
記録しておく以外にこのシステムもまたあってほしいものです。
本を読んでくれる、というアプリを開発した人は素晴らしい。
読み聞かせシステムがもっと発展することを願っています。