ガエル記

散策

『メイドインアビス 深き魂の黎明』

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この素晴らしいアニメを観て大きく二つの感情が渦巻いていてあっさりと書いてしまうのが難しいのです。

しかしなんとか文字にしないと伝えられないので書いていきます。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

まずはアニメーション映画として凄く面白く質の高い作品です。

直視できないほどおぞましく不気味で残酷な内容です。愛らしく子供っぽい絵柄で何とか観れる、という言い方もありますが私はその子供子供した愛らしさがより惨たらしさを倍増させる効果になっていると思えます。

かつて戦時中に日本やドイツで行われた人体実験を思い起こさせる(こういう時なぜか必ず「ナチスが・・・」と表現されるけどナチスほど有名でないだけで大日本帝国も同じくやっていたわけです)子供たちに行った肉体を破壊すればどういう現象が起きるかという手術を限りなく続けていくのが本作の敵役・ボンドルドです。

 

彼によって自らも実験台となりその後その助手をさせられたナナチは彼を激しく憎悪しています。

 

舞台は地上に開いた未知の世界である大穴「アビス」何層にもなるその大穴には人間が作り得ない宝物が潜んでいると言われる。

主人公女子リコはその秘密を暴くため、ロボット少年レグは自分自身が無くしてしまった過去の秘密を取り戻すために大穴「アビス」を探検する。そして一見ウサギのような(しっぽが長いが)容姿の少年ナナチはふたりを助けようと決意している。

 

未知の大穴、というのはわかりやすく人間性、心理の底はどうなっているのだ、の比喩にほかなりません。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

をそのまま作品化したのが本作なのでしょう。

倒しても倒しても復活して襲ってくるボンボルドの存在は当たり前です。

恐怖はなんど打ち消してもまた新しい恐怖がすぐに生まれてくるからです。

それは生きている限りなくなるわけはありません。

恐怖を持たない、というのは危険なことなのですから。

 

その恐怖を生み出すボンボルドの正体は観る人によって違ってくるでしょう。

幼少期に親から虐待されていた人は最も連想しやすいかもしれません。

ボンドルドを父親と慕う愛らしい少女プルシュカはボンボルドにとって単なる実験材料に過ぎないのです。

肉体的虐待だけでなくやりたくもない勉強、宗教、過度な躾、親の望むスポーツや芸能などまたは家業や家事、家族などの世話や介護を強制されるなどというような現在ではハラスメントと見なされる過去に苦しめられた者はそれらをボンドルドに重ねてしまうのではないでしょうか。

そしてそれを強制した親たちはむしろそのことを「美徳」と考え自分たちの考えと行動は「良いこと、立派なこと、尊敬されること」と信じているのです。

そう考えればボンドルドがなぜあれほど自分の行動に微塵も疑いがなく丁寧で愛情に満ちたと見える態度でいるのかわかります。

勉強させてより良い大学に行かせること、素晴らしいスポーツマンに育てること、家族の介護、家業を継ぐ、同じ宗教を信じさせることは間違いなく素晴らしいことだと確信していても不思議はないのですから。我が子にそうした教育をしている親は自分の教育を正しいと思っているものです。

 

ナナチはその虐待を受けた経験を持つゆえにボンドルドを憎み切っています。そしてその手助けをした自分自身を恨んでいるのです。

 

もちろんボンドルドの正体は「親」だけでなく学校の教師であり会社の上司であり政府の役人、政治家でもあります。

つまり絶対的に自分の上に立つ者、自分を支配する者、の具現者がボンドルドなのです。

とはいえやはりボンドルドの正体が「親」であることが最も恐ろしいことには違いありません。

それゆえ本作でもボンドルドはプルシュカというまだ幼い少女の「親」と表現されているのです。

ある程度成長してから出会い他人である教師や上司や政治家ならば戦うことができても赤ん坊が親に抵抗するのは無理だからです。

自立することができない許されない方法がない未成年者にとって親がボンドルドであることは死を意味します。

もしくは精神の死です。

 

そうした意義を込めて作られた『メイドインアビス』が面白くないはずがないのです。

彼らの深淵への旅はまだまだ続くようでこれからも楽しみです。

 

そして冒頭で書いた「大きな二つの感情」のもうひとつが

「やはりこれもまたバトル形式か」

ということです。

 

実を言えば日本のマンガアニメ、特に少年向け、とされるもので「バトル」を無くすことは想像することができないのかもしれません。

この場合の「バトル」とは「勝負=勝ち負け」と書き換えてもいいものです。

スポーツもの戦争ものであればそれそのものが「バトル」です。もちろん勝負を抜きにした戦争もの、スポーツものが描けないわけではないでしょうが日本の少年向けマンガアニメで「勝ち負け」を求めない「誰が勝ってもいいし俺も勝ちたいと思っていない」なんていうのはあるのでしょうか。

そして本作でも主人公たちはボンドルドに果敢に戦いを求め勝ち抜きます。

 

これは先日観た『メッセージ』の「ノンゼロサム」を引きずっていてどうしてもそれを考えずにはいられないのです。

「世界に平和を」「戦争はなくしたい」といいながら日本の子供向け作品はどうしても戦いから逃れられません。

最近は女子向けでもバトルを主題にしています。

勿論そのバトルは殺し合いではなく人生の中で戦い抜くことをイメージさせているのだ、と言えるのでしょう。

少女たちもバトルスーツを着て戦う、それは人生への戦いだと。

しかしなぜそこで「戦う」という言葉が出てくるのか?

なぜ「話し合い」ではなく「戦う」というイメージになるのか?

 

本作でもボンドルドと主人公たちの対決は「話し合い」ではなく「バトル」という形式で表現されます。

繰り返しになりますがそれは人生を戦い抜く、という比喩であるとしてもなぜに「肉体をつぶし合う」戦いになるのか?

 

本作はアニメーションなので言葉による懐柔ではなく絵として見せたいのだ、ということもあるでしょう。

しかしそれもまた最初から「バトルありき」発想からくるものに思えて仕方ありません。

では「バトル」ではなく面白い発想、面白い表現とはなんなのか、と問われれば今すぐには答えきれません。

しかしそれを考えていかねばならないのです。

 

映画『メッセージ』は確かにその一つの答えです。

リコ・レグ・ナナチがバトルではなく深淵の答えを探る方法、もしかしたら『メイドインアビス』には描かれているのでしょうか。