ガエル記

散策

「マクマーティン児童施設裁判〜」 そして「小山田圭吾事件」

f:id:gaerial:20210717054859j:plain

1980年代のアメリカ伝説的裁判!児童の組織的性的虐待悪魔崇拝の強要?しかし子どもの証言は矛盾だらけ。いったいなぜ?記憶とは?真実とは?混乱の裁判の結末は?

 

という番組でした。

結果をウィキペディアから引用しようとしたら

 

全ての容疑について1990年に無罪となった。

 

とされているのですが番組内で容疑者はアメリカの裁判において

 

NOT GUILTY=有罪ではない、となったのであって無罪というわけではない

 

という説明があり確かに番組内容を観ていけばいったい誰が正しくて間違っているのか、容疑者がこどもたちに加害したのかそれはどういうことだったのかそれとも何一つ起きなかったのか何もかもわからなくなってしまう。

そしてそうした混乱は人々の善意から引き起こされたものなのだというのである。

 

もちろんこの番組自体が観る者を混乱させようとしている目的がまったくないわけもないはずです。混乱するほどこの事件の恐ろしさが伝わるだろうという思い入れはきっとあるでしょう。

それに果たしてほんとうに「善意」だけで混乱が引き起こされたのかもわからないはずです。子供たちを助けたい、こんな犯罪を許してはならない、という正義とは別に事件を面白おかしくしたい、人々の興味を惹きたい策略は様々な人にあるからです。事件関係者だけでなく噂話をする無関係者の間でも。

 

さてそんな思惑が交錯する中、当事者である子供たちはセラピストや親によって容疑者からどんな虐待を受けたのか、奇妙な黒魔術的儀式を経験したのかを告白していくのです。

番組ではそうした子供たちの証言は主にCII(国際児童研究所)セラピスト・カスリーン・マクファーレンの巧みな誘導尋問から発せられたものだとしています。このセラピストは子供の証言より先に容疑内容を子供に問いかけて子供がそれを否定すれば疑問を呈し子供が肯定すると褒めたたえるのです。そうなると利口な子供ほどセラピストの言葉どおりに「そういう目にあった」と証言していくのです。

そしてその問答を繰り返していくうちに子供たちは与えられた情報を

「本当にあった体験として記憶してしまう」

というのがこの番組の「ダークサイドミステリー」なのです。

 

最後に渦中にあった一人の女性が20年後に再び証言をします。

 

あの時幼い私は容疑者とふたりきりになって恐ろしいことをされた。その記憶は何度も蘇ってきて私を苦しめてきました。あれから私はもう誰も信じることもできなくなってしまったのです」

 

さてこの証言は真実の記憶なのか、それとも作られてしまった記憶なのか。

と番組は追い打ちをかけます。

しかし本当に何も起きなかったのに「嘘の恐怖」を植え付けられそれが原因で誰も信じられなくなってしまったのなら、それは悲劇です。

 

そして番組は念入りにこう忠告します。

 

「この事件から様々なことが変化しました。もし子供が(大人でもでしょうが)「こんな目にあった」と被害を告白しても「この子は(この人は)嘘の記憶を植え付けられてしまったのだ」という疑惑が生まれるようになったのです」

 

そう。もしこの番組を馬鹿正直に受け入れてしまう人がいたら被害を受けた人の証言を否定することができます。

特にこの事件と同じようにそれが性被害、いじめ、ハラスメント、後の残らなかった暴力の場合大きな危険性を持ちます。

そして事実そうした被害の否定は今も人々を苦しめ続けています。

 

やや違う方向性ですが、今ちょうど「オリパラ開会式」に関する作曲担当としてコーネリアス小山田圭吾氏が選出されたことが問題になっています。

彼はほぼ25年前ロッキンジャパンそしてクイックジャパンでいくつものいじめや身障者に対する侮蔑や暴力を行っていたことを語っていました。

偶然私はロッキンジャパン1994年一月号を買っていて手元にもっていたのですがその目的がブルーハーツだったためもあって件の記事を読んでなかったのでした。

 

さて上の番組を見てからこの事件を知ると様々に思惑が訪れます。

小山田氏はすでに謝罪文を公開していますので過去の事件が完全な嘘ではなかったのでしょう。

しかしその謝罪文には「雑誌インタビューでは虚偽があったのですがそのまま放置してしまいその後も謝罪をしなかったのは保身の気持ちがあった」とも書かれています。

ネットユーザーなどの反応を見ていると「あまりに残酷ないじめで許されるものではない」「被害者は一生傷を負っていく」「パラリンピックの作曲家が障碍者いじめをしていたという恐怖」という言葉であふれていて私自身もそう考えています。

が同時に過去のーこの場合はー記憶ではなく記録を書き換えることはできない恐ろしさも感じます。

 

そうしたいじめが放置されてきた「学校」という場所への疑問は今もなお変わらず存在しています。

そして人格教育の必要性も軽んじられてきたのです。

いじめられた経験はよく話題になりますが「いじめた経験」はあまりされないのは勿論それを恥じる意識があるからです。

私自身いじめられた経験もあるならいじめた経験もあります。

しかしそれを自慢として話したくない羞恥もまたあります。

多くの人がそうではないのでしょうか。

 

小山田氏のいじめはあまりにも度が過ぎていてこれが「雑誌側の受けを狙った嘘」なのかもしれません。

彼自身がいうとおり若気の至りの見栄っぱりそして未熟さ、などを考えもします。

 

とはいえ結局それは「自分が招いたもの」です。

 

私はこれまでその人が表紙だった雑誌を買っていたにもかかわらずコーネリアスおよび小山田圭吾というミュージシャンをまったく知りませんでした。

多くのファンがこの掲載記事で離れていったというのも今回知りました。

私は彼の次に載っていたブルハしか見てなかったのです。

f:id:gaerial:20210717072141j:plain

この記録はどうにもなりません。

私さえ持っているのです。

 

いじめの被害者は絶対に守るべきです。

いじめ自体はなくなるはずがない。その被害をどう少なくできるかを考えていかねばなりません。

しかし日本政府はいじめをなくそうという気持ちいじめ被害者を守ろうという気持ちをまったく持っていないのです。

そこを変えなければなりません。

小山田氏が本気で反省するのならそうした社会を変えていってほしいのです。