ガエル記

散策

『輪るピングドラム』幾原邦彦 その4

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20駅まで鑑賞。もっと進めてもよかったのですが20駅は素通りできる内容ではないのでここで書き記してみます。

 

最初の馬鹿々々しいほどのふざけ気分は影をひそめ真実をみつめなければならない段階に移った、のです。

リンゴの行動を「とんでもない非常識」と思っていた頃が懐かしくむしろあのままでいてくれた方が良かった、とさえ願うのです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

本作の核となるのは16年前に地下鉄テロ事件の首謀者・高倉夫婦の子どもたちの苦しみです。現在流行りの「親ガチャ」の最たるもの、というべきでしょうか。望んだわけではなくとも他人に被害を与えた親を持つ子どもはその罪と罰を受け継ぐことになってしまうのです。

最初このアニメを観てから後、和歌山カレー事件で容疑者となって死刑宣告をされた人物のこどもたちのその後の報道を知りどうしても本作を思い出さずにはいられませんでした。

しかもその裁判の正否が疑問視されていますが、当の子どもたちはどうであれまっとうに生きることはかなわなかったのです。

きっとこうした事実が様々な大きさや形で存在するのでしょう。

そしてまたそれとは別に見えない形でも子どもたちが迫害されています。

 

今「毒親」と名称される自分の子どもに加虐してしまう親たち。たぶんその親たちもそのまた親たちから加虐されその連鎖はいつまでも続くのかもしれません。

しかも子供時代には自分が加虐されていることさえわからない場合が多いのです。いや大人になってもわからないままで間違った教育ををのまま正しいと信じて我が子にも与える場合が多いのかもしれません。

 

本作ではリンゴの両親が彼女の死んだ姉のことばかり考えリンゴの存在をないがしろにしていること、ゆりの父親が彼女に精神的肉体的虐待(たぶん性的にも)を与え続けていたこと、真砂子が祖父からの呪縛にとらわれ続けていること、多蕗が自分より才能豊かな弟に母親の愛情が奪われたこと、などが具体例として示されてきました。

 

そしてここで高倉兄弟の悲しい運命が単にテロ事件から引き出された結果だけではなかったことが示されていきます。

特に陽毬はいつ死んでもおかしくはない惨めなものでした。

映画『万引き家族』で虐待を受けていた小さな女の子が万引き家族に引き取られ最終的に再び毒親のもとに戻されてしまいますがこの『輪るピングドラム』はその後の物語なのではないかとむしろ願ってしまいます。

 

かつて「かわいそうな子どもたち」の物語はよく描かれてきました。様々な差別、貧乏な家、孤児、意地悪な親戚や周囲の人にいじめられる立場の弱いこどもたちが頑張る話でした。

その後そういうものは「お涙頂戴もの」というレッテルで卑小化されてしまいましたが現実ではそういう「かわいそうな子どもたち」がいなくなったわけでは決してなくむしろ人目につかないように隠されてしまったように思えます。

「我が国は立派で素晴らしい善人の国である」という大義名分のために「かわいそうな子どもたち」は子どもブロイラーで透明にされてしまったのです。

 

輪るピングドラム』第20駅の話ほど恐ろしく悲しい話はありません。

現実に捨てられた子猫のように小さく何の力もない陽毬を誰が救ってくれるのでしょうか。

その子どもたちがせめて自分たちで手を握り合い寄り添い生きていこうとするのは許されないことなのでしょうか。

折れそうに細い素足で逃げ惑う陽毬を誰かが救ってあげなくてはならないのです。

 

小さな陽毬が薄暗いコンクリートの建物の中に逃げ込むのを見てピングドラムを渡してあげた晶馬のように。

 

子どもたちを守ってあげなくてはいけない、それだけが大切なのです。

 

でも今日も死ななくていい子どもたちが大人に殺されていく。なぜ?