酷評らしい。確かにそうしたレビューを幾つも見た。
そうなんだろうか。
どこまでが事実で嘘なのかわからない。グロテスクで嫌な映画だった。
というのが大まかな感想のようだけどその通りだしその通りに決まっている。
「伝記映画」「事実をもとにした映画」と付記された映画は常に虚実綯交ぜでこれまでも作り手側の何らかの意図に寄り作り変えられてしまうものだった。それらは殆ど無視されてきたのにどうして本作ではあれほどのバッシングになってしまったのか。
たぶんそれはというか絶対に本作品ではその虚実が性的な部分であったのが原因なのだろう。
ネタバレしますのでご注意を。
ケネディ大統領が彼女にオーラルセックスを強要したうえ侮蔑の言葉を吐いたこと、はその一番のことだろうし彼女がチャップリンジュニアとその友人の男と三人でセックスをし続ける関係であったこと、から壮絶にグロテスクな中絶手術の場面、父親から見捨てられたと言い聞かされその苦しみからか常に愛する男性を「パパ」と呼んでしまうマリリン、出会う男は皆彼女を性の対象としてしか見ておらず性欲を求められるか侮蔑されてしまう。同性との縁が極端に薄くこちらでも羨望か軽んじられてしまう。
作品全体が夢の中のようであり常に酔っ払った精神状態みたいに不安定で朧気で不確かだ。
女としての願望でありながらこんな女にだけはなりたくない、という恐怖でもある。
「こんなことはなかった。嘘じゃないか」という表現もマリリンもしくはノーマがどう感じ思っていたかはどうせ誰にもわからないのだ。
私としてはこの映画を観てマリリン・モンローに感じていたそのものを映画化されたように思っています。
例えば「ケネディはこんなことは言っていない、やらせていない」と言っても彼女自身がそう感じたのかもしれない、とも想像できます。
つまりこの映画でマリリンは常にセクハラパワハラモラハラの中にいるのにあの時代にそれを言葉にして考えるのは困難だったはずです。
勿論彼女は自分の魅力をアピールしてスターとなったのですがそのことから産み出される他人からの加害そして自虐を認識できていたのでしょうか。無理だったに違いないのです。そんな認識はなかったのですから。
その時代にわからなかったハラスメント・暴力・意識を映像化したのが本作品なのです。
ノーマはマリリン・モンローになるためにレイプされ妻になるためにモラル・ハラスメントを受け深く傷つくのですが夫どころか彼女自身もよくわかっていないのです。
毒親に育てられ見捨てられた彼女は愛情を与えることも受けることもどういうことなのか理解していません。
母親とは接していたので女性からは深い愛情を得られないと彼女は思い込んでいたのではないでしょうか。
そして存在しなかった父親に対しては逆に憧れを持ってしまったのでしょう。
なので常に「父親と思える男」を求めてしまい「そうじゃない」ことに気づきまた傷ついてしまう。よく「母親代わりの女性」を求める男が失望するのと同じですね。
本作を観ているとどうしても山岸凉子マンガ作品と重ねずにはいられません。
山岸氏描く女性たちはほぼノーマ=マリリンと同じです。
家父長的な男性を理想として憧れ愛し当然の如くその男から加虐され傷つくのです。
殆ど山岸凉子が監督なのではないかとさえ思えるほどその描写が似すぎて不気味でした。女性は美貌と性的魅力で男性からの愛情を得るものだと信じそしてそのことで傷つく。そうした男性とばかり関係を持ってしまうのです。
この映画がグロテスクで嫌悪しか感じないのは当たり前のことです。
マリリン・モンローはそうした権力主義、暴力とセックスの世界の犠牲者そのものとしてすりつぶされてしまった人なのですから。
映画の中でも「美しい子ども」という言葉が出てきましたね。
「フェアチャイルド」作家トルーマン・カポーティはマリリン・モンローを「美しい子ども」と表現しました。
この言葉が忘れられず今もマリリンを見ると必ずこの言葉を思い出します。カポーティは「美しい子ども」であるマリリンに好意を持っていて彼の作品『ティファニーで朝食を』のヒロインはマリリンをイメージしたそうですが現実の映画化ではオードリー・ヘプバーンでしたね。
カポーティとは違い多くの人にとっては「美しい子ども」はオードリーであってマリリンではなかったのです。
しかし本作品を観るとますますマリリンは「美しい子ども」そのものです。
監督もこの言葉から本作品のイメージを作り上げたのではないか、とさえ思えます。
そして「美しい子ども」でしかなかったノーマ=マリリンは大人の世界にすりつぶされてしまった。
「美しい子ども」は大人たちの餌食でしかないからです。そしてオードリーのほうはそんな大人社会を飄々と生きぬいていったように思えます。勝手なイメージですが。
一方マリリンという子どもは生きぬいていけなかった。あまりに性的魅力がありすぎたのです。彼女の内臓はずたずたに切り裂かれその美しい下腹部は血にまみれるしかなかった。
『ブロンド』というタイトルも不気味に感じます。
彼女自身はブロンドではないのに最も性をそそるブロンドに変えられたのです。
悲しい映画でした。
同じようにスターだったフレディ・マーキュリーの映画は悲しいながらも観た人に力強い喜びを与えたのになぜマリリンの映画は酷評だったのでしょうか。
「すりつぶされた美しい子ども」それが感想です。