ガエル記

散策

『輪るピングドラム』幾原邦彦 その5

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第24駅まで再鑑賞終了しました。

今更ながらこの作品は今もっとも観なければいけないもので一番大切なことが描かれていると確信しました。

映画化されるのはほんとうによかった。

もう一度この作品が多くの人に観てもらえて幾原邦彦監督の考えを知ってほしい。

私はリアルタイムで観たのではないのですがこの作品に巡り合えたのは奇跡と思い感謝したいです。

 

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

最期にきて幾原監督の思いが怒涛に渦巻いていきます。それは冠葉の叫び声です。

この世界で見捨てられ苦しめられ飢え傷つき時に死んでいく子どもたち。

今日も絶えることなくそんな報道がなされています。

いったいなぜ私たち大人はそれを食い止めることができないのでしょうか。

 

幾原邦彦はこの物語の様々なキャラクターなのです。

彼は見捨てられた冠葉であり晶馬であり陽毬でもあるのです。

リンゴでもあり多蕗でもありゆりでもあり真砂子でもあるのです。

同時に彼はサネトシでもあり桃果でもあるのでしょう。

この腐った世界を破壊してしまわなければ新しい良い世界などもう作れないのではないかと私自身何度も思いました。

きっと幾原もそう考えたに違いありません。

子どもたちを苦しめるこんな世界など破滅させてしまえと。

しかしそれは正しい方法ではないのです。

そして桃果が生まれ幾原の心の中でふたりは戦い相打ちになったのです。

 

誰かこの世界を救ってくれないだろうか。

 

そこに現れたのが宮沢賢治銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラであり『双子の星』チュンセ童子ポウセ童子だったのです。

ジョバンニとカムパネルラである冠葉と晶馬は自分たちの言葉通り蠍のように自身を赤く焼いて「かわいそうな子ども」陽毬を助けました。

そして陽毬を助けようと自己を犠牲にしたリンゴの代わりにその身を焼きました。

 

他の物語のように冠葉・晶馬が陽毬・リンゴの恋人や夫にならないのは彼らの目的が彼女たちの魂を助け守ることであるからです。

そこに幾原監督の思いが込められています。

 

「ほんとうのさいわいとはなんだろう」

 

この問題を私たちはずっと考えていなければいけませんでした。

ずっとずっと昔に宮沢賢治はこの命題を私たちに示してくれたのに私たちはそれを無視してきたのです。

その代価はとてつもなく大きなものです。

しかしまだ遅くはないのです。

もう一度この問題を真剣に考えて欲しいのです。

 

「本当の幸福とはなんなのだろうか」

 

子どもたちがご飯を美味しく食べられぐっすり眠ることができそして保護者に「愛されること」

その基本があれば社会は自然に幸福になっていくのではないのでしょうか。

この世界の最も幸福なのは夕方まで遊んでいる子どもたちが「ごはんよ」と母親が呼びに来る光景だと言った人がいました。

私もそう思います。

もちろん実の母親ではなくてもその代わりになる人が愛してくれればいいのです。

 

この物語で冠葉と晶馬は陽毬を守り愛してくれました。

そしてリンゴは自分の力で父と母を愛し許しました。

リンゴの成長は素晴らしいものです。

 

 

どうかこの物語が映画となって再び多くの人の心を動かしますように。

「ほんとうのさいわいとは」何なのか。本当に大切な幸福をどうやって作り上げていけるのか。

私たちのピングドラムを見つけなければいけないのです。