ガエル記

散策

『ゼム』6話まで視聴

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実は少し前に観始めていたのですが、2話を終えたところで白人の黒人差別に耐え切れずやめていたのですが「デイブ・フロムチャンネル」で角由紀子氏が「『ヘレデタリー』と通じる面白さ」と語られていたのでやはりこれは観たほうがいいのかも、と決意しました。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

6話まで進みましたが観続けてよかったですね、これは。

もちろん白人の黒人差別は酷くなるばかりで耐え難いのですが想像すればこの差別意識、いじめ、迫害、蔑視からくる異常な暴力は様々な他の例に変えてかんがえられます。

日本でならなぜか日本人種は自分たちの国は「純粋な日本人」だけで成立していると思い込む癖があって「日本は単一民族国家である」と言い続けてきたと記憶しています。

それゆえに少しでも違う要素を見つけると排斥し「出ていけ」と叫ぶのです。

このドラマを日本に置き換えて考えるのは簡単にあっという間にできそうですが作るのは困難ですしテレビ放送は絶対無理でしょう。アメリカでもアマゾンプライム製作でさえ賛否両論だったのです。

 

観るのがここまで恐ろしいドラマはそんなにないでしょう。

常に蔑視を意識させられ、常にいつ襲われてしまうかもしれない、殺されるかもしれない、家族を失ってしまうかもしれないと恐れていなければならない。

いったいこんな世界で生きていることができるのでしょうか。

しかし事実その世界で生きねばならない人生があるのです。

 

もしくは人種差別ではなくても何らかの原因であるいはなんの原因があるとも言えないのに迫害され虐められ暴力を受けだけど戦うことも逃げることもできない状態で毎日を過ごさねばならないのだとしたら。多かれ少なかれその状態に誰でもいるのでは、とも言えます。

 

さて本作を観てて特に悲しく思えたのは長女ルビーです。賢くて温和な彼女でチャーミングなのですが学校では極端ないじめはないもののいつも一人ぼっちなのです。

寂しさで彼女は空想の白人である親友を作って心を慰めています。

可愛らしく明るい白人女性の親友は彼女の容姿をほめいつも誘ってくれるのです。

 

ところで実際にも映画やドラマで白人と黒人の女性同士の親友、という描写はあまりないのではないでしょうか。

例えば白人のヒロインに黒人の友達もいる、という設定になっていても白人女性同士の友情場面より関係が軽く見えます。

アメリカのそうした人と人の関係を密接に見せる場面では互いの目を探るように見つめ合うものですが白人同士ではあっても白人と黒人ではそうしたアイキャッチが少ないのですね。

むろん、白人とアジア人ならもっと少なく感じます。

これは実際に白人・黒人・黄色人の友情がない、という意味ではなく映画やドラマなどのメディアでそうした異人間での強い友情もしくは馴れあった友情を描くことがほとんどない、という意味です。

なので本作で黒人少女ルビーと白人少女との空想の親友同士の描写はちょっと胸にきました。

かつて私は黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの『もう一つの国』をよく読んだものです。

ここでは黒人男性と白人男性の友情そして恋愛が深く描かれていました。そのためもあってかボールドウィンは「白人よりの黒人作家」と揶揄されたのだそうですが私は「そんな風に思い描くのはいけないのだろうか」と考えたものです。

そのボールドウィンの名前を聞くことも今はもうありません。

 

空想の白人少女が黒人少女ルビーの目をじっと見つめて言う「あなたは今まであった黒人のなかで一番かわいいわ」ということばにルビーは嬉しそうに微笑みます。

 

とはいえ私が観た映画ドラマなどほんの一握りなのですからそうした親友物語はきっとあるに違いありません、と信じたい気持ちです。

しかしいまだに『グリーンブック』みたいな映画がアカデミー賞だったりするのでどうなのでしょうか。

 

差別、いじめ、蔑視、そういう身近な恐怖こそほんとうに耐え難いものだと思います。

 

だからこそ小山田圭吾問題はあれほど人々を考えさせたのでしょう。今もまだ考え続けられていますね。