ガエル記

散策

『私はあなたの二グロではない』ラウル・ペック

f:id:gaerial:20201022072321j:plain

I Am Not Your Negro)は、ジェイムズ・ボールドウィンの未完成原稿『Remember This House』を基にしたラウル・ペック監督による2016年のドキュメンタリー映画である。サミュエル・L・ジャクソンがナレーションを務めるこの映画は、ボールドウィンによる公民権運動指導者のメドガー・エバースマルコム・Xマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの回想を通してアメリカ合衆国の人種差別の歴史、そして米国史についての彼の個人的な考察が描かれる[4]第89回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。(wikiよりコピペ)

 

集英社文庫野崎孝訳『もう一つの国』を読んだ人は私と同じ世代なのじゃないかと思います。

1977年に発行されたその本はどうやらもう絶版になっていてこの本が話題になることもほとんどないからです。私がこの本を買ったのは中学の終わりだったか高校生になってからか定かではありませんが数えきれないほど読み返しました。

同じ頃吉田秋生にはまっていたこともあって(というか彼女自身この本を読まれているし多大な影響を感じさせます)少女期の私のバイブルのようなものでした。

もっと以前の子供期にヨーロッパにあった意識がアメリカ大陸に渡ったような感じでしょうか。

映画でも『真夜中のカーボーイ』だとか『真夜中のパーティ』だとか『スケアクロウ』だとか『ヘアー』だとか『M☆A☆S☆H』『タクシードライバー』『スローターハウス5』『地獄の黙示録』『ゴッドファーザー』『ミスターグッドバーを探して』『ジョニーは戦場へ行った』『エクソシスト』『イージーライダー』『ダーティハリ―』などなどなど私の映画感性は70年代に育成されたことは間違いありません。

ところがこれら大好きな映画を見渡しても「黒人俳優」が主人公ではありませんでした。黒人俳優は常に脇役であったわけです。

もちろんシドニー・ポワチエというとびきりの二枚目黒人俳優がいたことは確かですが白人と同等に様々な配役がされることはなかったのです。

 

以降少しずつ黒人俳優が有名になり始めましたが今現在でもその活躍の範囲は狭いものだと見えますし、黒人キャラだと思ったら実はアメリカ人ではなくイギリスなどの外国から採用された黒人俳優であることもままあります。

ただでさえ少ない採用枠にあえて外国の黒人俳優を使う理由とは?

アメリカの白人のアメリカの黒人への意識をここに感じてしまいます。

 

『私はあなたの二グロではない』強烈な皮肉を放つタイトルにかなりびびりながら観始めましたがジェイムズ・ボールドウィンの落ち着いた語り口に救われました。

本作で彼と並ぶ黒人の代表にキング牧師マルコムXがあげられていますが誰もが知っているであろう(知らない人はとりあえず勉強を)二人と違いボールドウィンの名前を知っている日本人はあまりいないのかもしれません。

わたしにとってはかの二人よりもボールドウィンの著書に彼の気持ちを感じています。

『もう一つの国』はひとりの主人公ではなく幾人もの人々の物語が集まっている小説です。そこには白人の男女、黒人の男女が幾通りもの組み合わせで描かれていきます。

もちろんこれは彼の持つ提案であるのです。例えば白人女性と黒人女性、そして白人男性と黒人男性、いろいろな組み合わせができるのだと。

『ジョバンニの部屋』はフランスを舞台にした白人男性ふたりの物語です。ここにも黒人作家が白人の物語を描く権利と意識を感じさせます。

 

本作でボールドウィンが子供期に白人の女性教師に優しくされたことでどうしても白人を嫌いになれない、と説明する箇所があります。

そして彼の小説を重ねれば彼がアメリカという国で白人と黒人がほんとうに対等に交わっていける理想を願っていたのではないかと思ってしまうのです。

 

それでも現実のアメリカでは彼の死後もまだ、なおいっそう激しい対立が止むことはありません。

遠い国から見ているだけの私はボールドウィンの願いを悲しく思うとともに自国での差別意識もまったく改善されていかないことに苦しまねばなりません。

国と国民が発展し平和に生活するには平等の意識がなければどうしようもないのです。

 

まったく違う国のように思えるアメリカと日本で、差別意識だけがそっくり存在しています。

人種差別だけではなく性差別もまた、ですが。

 

人種差別と性差別を無くし対等である道を選択しなければこの二つの国は消滅するのだろうと考えています。