アメリカの動画配信サービスで『風と共に去りぬ』が一時配信停止になっているという報道がありました。
今でも人気のある名作映画ということもありますし、裕福な令嬢スカーレットの華やかさと彼女に仕えている黒人女性の対比はあまりにも明確に当時の白人の優位性を映し出していて現在の感覚では抵抗を感じるのが当然だと思います。
私たちの世代(1960年代)までは日本の作品よりもアメリカ映画やアニメを観ていたという人も多いのではないでしょうか。
私自身がそうでしたし今でも時折昔観たアメリカ映画やアニメを懐かしく思うのです。
が、たまにそれらを見返すとぎょっとしてしまうほどの差別表現に驚かされてしまいます。
大好きで大好きで数え切れないほど繰り返して観たテレビアニメ『トムとジェリー』には白人の家族と黒人のお手伝いさん女性が時々登場するのですが、なぜか白人家族は顔が出てくるのに黒人のお手伝いさん(と思っていましたが)は一度も顔が映らず体だけしか画面に出てこないのです。(実は一度真正面の顔が出てきていたのをつきとめた方がおられましたが)
しかも白人家族は皆ほっそりとしてあっさりした服装なのに黒人のお手伝いさんはかなりでっぷりと太っていて服はけばけばしく遊びに行くときはアクセサリーをじゃらじゃらつけていく、というのがやや滑稽に描かれています。
他にもネズミのジェリーが火あぶりにされて黒人(土人)になってしまう、というギャグがあったりするのですがそうした笑いをあの可愛らしいアニメで当たり前のように描かれていたのを私たちは繰り返し見ていたわけです。
『トムとジェリー』は猫とネズミの追いかけっこアニメであり特別に差別的な設定なのではないはずですがそうした意識というものはなんのためらいもなく笑いとして描かれ続けていたのです。
先日マリリン・モンローの映画を観ようと思い立ち『七年目の浮気』を選んで鑑賞しました。
無論初めてではないし、タイトル通りある妻子持ちの中年男が妻子がバカンスへ行ったのを良いことに若い女性(マリリン・モンロー)と浮気めいたドキドキをする、というコメディであることは承知していたのですが、映画の冒頭で「男は昔からどんな人種でも妻子の目を盗んで浮気をするものだ」という小噺をネイティブアメリカンの男女を使って説明することから始まったのに驚きました。
ニューヨークには昔彼らの村落があったがやっぱり男は若い娘と浮気していたんだよ、という芝居を極端にステレオタイプの「アメリカインディアン」という風体で描くのです。あまりのことに始まって数分で観るのを止めたくなったのですがもう少し続けたところで主人公男の妻子がバカンスへ出かける場面になるのですが大げさなほどのたくさんの荷物を駅に運ぶのが黒人のポーターなのですが荷物の上に乗っかったままの男の子が彼にいたずらするのを父親は厳しく咎めたりはしないのです。むろん母親もしかり。
まあ浮気心を持っている男、というのはこんな恥知らずだという演出といっても良いのですがたぶんそんな細やかなものではなく単なる「当たり前の白人男児の行為」として描いただけのことでしょう。
ほんの数分の間にこれほど人種差別の表現がまるで当たり前のコメディとして使われてしまうのが超有名なマリリン・モンローの『七年目の浮気』です。
またこれも超有名人気名作の『ジャイアンツ』エリザベス・テイラーとジェームズ・ディーンとロック・ハドソンが共演というなかなか面白い作品です。
ロック・ハドソン演じる男性は人種差別的な意識があったのですが息子が差別されていた(今もですが)メキシコ女性を妻にして孫が生まれたことを幸福と感じていく描写はすばらしいのですが、その感情変化に黒人は含まれないのです。
メキシコ人に対する差別感情はいけない、としながら黒人への差別は問題外になっている、と私は感じました。
そしてつい先日ヒッチコックの『知りすぎていた男』がテレビ放送されるのを見つけたので予約録画して早速観始めたのですが。
冒頭、主人公であるイギリス人夫婦と息子ひとりの一家族がモロッコ旅行でバスに乗っています。
といきなり、その一人息子が前列に乗っていたイスラム教徒らしい女性からスカーフを引っ張り取ってしまうのです。同乗していた連れらしい男性が少年に怒りの声をあげるとやっと気づいた主人公夫婦は驚いて息子を庇います。様子を見ていた別の同乗者男性(フランス人)がイスラム男性をとりなしその場は収まりました。
「彼らには彼らの規則があるのですよ」というフランス人男性に息子の母親は「でもこんな子供に怒るなんて」と不快を示します。父親も息子に注意をするわけでもありませんでした。
このエピソードは後から起きる何かの伏線なのでしょうか。書かれているあらすじではそうは思えません。
実はもうあまりにも無礼な態度に観る気も失せてしまいました。
イスラム教の女性のスカーフを取ってしまうなんてあまりにも失礼ではありませんか。
もしも逆にその奥さんの履いてるパンツを外国の子供がいきなり脱がせて取り上げてしまっても夫は怒りもしないのでしょうか?そのくらい屈辱的な酷いことではないかと思います。
ヒッチコック監督の映画はかなりこうした差別的な感覚があちこちで感じられてしまいます。ミステリーやサスペンスの巨匠であったかもしれませんが人格者とは言えない人物だったのでしょう。
「ケセラセラ」の歌で有名になった映画らしいのですがスカーフを取られた女性はそんな心境にはなれないはずです。気楽なものですね、差別する側は。
それでも映画レビューを見てもそこに引っかかっている方は見つかりませんが私はこんな嫌な家族に共感できる気がしません。
映画の主人公というものは並外れた美男美女で人柄だって盛ってしまうものなのにこうした差別感情というのは気にしない人間にはまったく気づくこともできない、ということなのでしょうか。なぜあそこで差別発言をしたのか、それで観客が共感できると思えたのか、不思議です。気にしている人もほぼいないようなので(日本では)いいのかもしれませんが、私はもう鑑賞することはできません。
つまりこのようにして差別表現というのは作品の中にそっと潜り込んでいるものです。それにどう対応していくかも大切なことだと思います。