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『進撃の巨人』諌山創 The Final Season その2

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なぜ諌山創氏は『進撃の巨人』を描いたのでしょうか。こんなにも苦しみに満ちた物語を醜悪とも思える数々の作画を続けてきたのはなぜなのでしょうか。

私はそれを「戦争への恐怖」だと考えます。

「人々が憎しみあい差別し合い人々を虐待し迫害し続ける仕組みへの恐怖」です。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

 

 

進撃の巨人』においてのその関係性、マーレ人とエルディア人の関係性はぱっと見ナチスドイツとユダヤ人の関係性と重なります。

ゲットーを思わせる住居区域、印のある腕章を強制されている、白人と黒人のように外見だけではわからない、マーレ人もエルディア人も黒髪もいれば金髪もいるのだが「穢れた血」という理解しがたい差別をされていることなどがナチス時期のユダヤ人を彷彿とさせます。

しかしそこまで単純ではないのはすぐにわかってきます。

「巨人になる」という特性はマンガ的手法で当然ですが戦争の中で最前線に置かれる、「名誉マーレ人となるために必死で努力する」という設定はナチスにおけるユダヤ人ではなくアメリカでの白人支配下の黒人あるいはかつての日本の中での朝鮮・韓国人の立場を思わせます。

他の方のレビューを見ているとそれぞれ様々にマーレ・エルディアのモデルを考えられています。

中にはエルディア人が日本人だと主張する人もいるわけです。相当迫害を受けていると感じている方なのでしょう。

もちろん島国であることやアジア・黄色人でありながら「名誉白人」と言われて喜んでいる様を考えるとそう重ねてしまうのも理解はできます。

 

つまりはマーレ人・エルディア人のモデルは何?というより

マーレ人=支配者、エルディア人=従属者そして反逆者という図式で考えるのが妥当なのではないでしょうか。

日本人も時に支配者であり従属者であり反逆者でもあるといえます。

 

その図式には作者がこれまで見聞きした知識が詰め込まれていてしかもその深さ多様性に感心します。

その中でこれまで少年マンガであまり明確に描かれてこなかったのはやはり従属性のエルディア人であるライナーやガビそしてアニ、ファルコでありこの作品の中でもっとも語られるべき存在であると思えます。

 

従属性エルディア人の中にも極端に従属の意識を持つガビ、ライナーと比較してファルコのように少し離れた視点を持てる人間を配置してしまうのです。

アニはまた違う感覚ですしピークさんに至ってはまるきり達観しているかのようです。

 

私は日本人はアジアでの歴史からマーレ側と思っていました。

そのため日本人をエルディア人と考えてなかったのですがアメリカへの日本の対応はエルディア人のマーレ人への従属性に見えますし「名誉〇〇人」という称号をもらいたいために頑張ってしまう姿と重なります。

また壁の中で長い間平和でいたのをぶち壊され進撃していく姿もまた明治の日本のようであるわけです。

様々な国を重ねてもいろいろに考えられていくわけです。

そしてまたいつどのようになってしまうかはわからないのです。そしてどちら側になったとしてもそれは幸福ではありません。

 

だからこそこの作品が「戦争への恐怖」だと思うのです。