いやもうね。絶対悪くはならない、と思いながらも(しゃれではない)最後だけ緩かったら悲しいな、とついつい思案したのは結局杞憂に過ぎず想像した以上の完璧な最終回でした。
オリジナル製作自体が困難でしかもここまで売れ線を外し切った企画がどうして成功したのか。江口寿史キャラクター原案(しかも原案に過ぎずメインキャラ以外はかなり自由)という要素だけでこれだけの作品が自由に作れるのならこれからもメインキャラデザ原案のみ売れ筋要素にして自由にオリジナルアニメ作品を作っていってほしい。結局は設定とわき役と物語が重要なのですから。
ネタバレしますのでご注意を。
タイトルは『十五少年漂流記』の原題Deux Ans de Vacancesからきていますね。
そしてその通り長良たちの漂流は二年間の人生の休暇だったのでした。
さらに長良自身が断言したように現実は変えられることはないのです。
彼は元通り平凡で目立たない少年でしかも貧困家庭のために高校生でバイトを強いられ上司から怒鳴られ疲れ切って帰宅し半額になった弁当を食して黙々と過ごす人生を繰り返すしかないのでした。
虚しいのはかつてなら接点のなかったはずの希や瑞穂のような魅力的な少女たちと漂流期に近しくなれたのに現実に戻ってしまえば元の彼女たちとはもうつながることはないことです。
さて本作は楳図かずお『漂流教室』が元ネタともいわれていました。『漂流教室』は主人公たちが新しい未来を切り開こうと駆け抜けていく力強い終わり方で感動を与えてくれました。
それに比べ本作の終わりはずっと重苦しいものです。
「どうせ世界は変えられない」
これは現在の日本社会をそのまま表現しています。
『漂流教室』の時にはまだあった未来への期待が50年近く経った今ではすっかり消え失せてしまったように思えてなりません。
それでも長良はこの世界を選択し生きようと決めたのです。少し後悔はしていますが。
わずかに見えた希望は瑞穂がいったん漂流の記憶を失ったかに思えたのがなにかのきっかけで取り戻したということです。
(夜の学校内でコップを割って窓の外に怪しい人影を見た、というエピソードは何を意味しているのでしょうか)
そして以前傷を負った鳥を見ないふりをして通り過ぎ希に嫌われた長良が今度は気になり安否の確認をしようとした、ということです。
その結果一度目は通り過ぎていってしまった(元の世界の)希から声を掛けられる、というハプニングが生まれます。
確かに長良は変わったのでした。
現実世界での希は朝風と付き合っていますがやはり彼女は傷ついた鳥を助けずにはおられない優しい少女だったのです。
そして燕のヒナを通じて現実に長良は希との接点が生まれたのです。
この出来事は世界を変えるほど大きな出来事なのです。
なにしろ
可愛い女の子との接点がなかった少年が自らその接点を作り出したのですから。
希はその名のとおり長良にとっての希望だったのです。
その希望を自分でつかんだこの出来事はどんな革命よりも大きなものなのです。
世界は変えられないけど自分は変えられる。
長良のようなSonnyBoyではなくてもすっかり年を取っていたとしても人生はもう少しだけ続きます。
燕ののひなを心配する。そんなことでも違う自分を見つけられる。
二年間の休暇を経て長良は確かに変化したのです。
瑞穂の言葉にも助けられました。
「大丈夫だよ」