ガエル記

散策

『Le Sommet des Dieux/神々の山嶺』パトリック・アンベール

気になっていたアニメ作品がアマプラで配信始まったので鑑賞しました。

もうこれ私にとっての今年最高アニメ映画では、というのはちょろすぎでしょうか。

 

フランス製作アニメというのを聞いた時は何故日本製でできなかったのかと思ったのですが鑑賞して考えは変わりました。フランス製作で良かったのではないでしょうか。

日本人がこの手のアニメを作ることはできない、とは言いませんが商業作品にするのは難しい。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

そして感想第一はというか観ている間ずっと思っていたのは「絶対登山はしないぞ」ということです。

アニメを観ていてまじで肝が冷えました。恐怖で体を固くしてしまうなんてアニメではなかなかないことです。

特に文太郎のエピソードは辛かったです。

でも幽霊になって出てきた時はなんだかほっとしました。

彼の心に楔となっているのですから。

 

つまりは・・・この物語は山を登る話だから「私は登山は怖くてしない」と書いたけど

登山の部分を他の何かに置き換えることはできるわけです。

普通の生活も仕事も結婚も友情も何もかもが誰かにとっては「そこにあるから」であって誰かにとっては「とてもできない」ことではないでしょうか。

そして本作に登場する男たちはそうした普通の人生や結婚や生活は「とてもできない」ことなのです。

私たちはだれでも常に選択しその道を進まねばならない。

選択せず他人にゆだねている人生だってそれを選択しているわけです。

取返しのつかない過ちを犯したり何かを達成して感激したり。

例えば出産育児なんてとんでもない登山ですよ。

その時にパートナーが仲間を仲間と思えない人間なら共に生きていくことはできないでしょう。

 

そして何事もそれを体験しなければ喜びもまた感じられないのは仕方のないことです。

 

それを諦めてしまえば人間は「なにもない状態」になってしまうのでしょう。

 

 

劇場版『Gのレコンギスタ V』「死線を越えて」

やっとラストまで鑑賞できました。

 

しかし逆にTV版を最初から観なおしたくなったw

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

富野監督によるガンダムの集大成でありつつガンダムへの抗議でもあるのですがやはり大人への憎悪は同じ。

 

ファーストガンダム世代の私たちにとってファーストガンダムの呪いはあまりにも強すぎる。

岡田斗司夫氏でさえ『ファーストガンダム』しか認めないとか言っているのですが時代によって作品が変わっていくのは当たり前のことです。

本作の主人公ベルリがアムロに対するカウンターなのは勿論作品設定のもろもろがファーストの逆を描いていると思えます。

絵柄自体どこか重みと哀愁のある安彦良和氏のキャラデザインとは違い可愛く明るい吉田健一デザインは軽妙な未来を感じさせます。

と書くと富野監督が安彦デザインを否定しているかのようですがそんなことは決してないと思います。

ところで安彦良和氏の『ガンダムオリジン』最終巻を最近やっと読んだのですがラストで奇妙なデジャビュになって困りました。読んだことがあるような変な気持ちになったのです。

それが今回本作を観て「あー」と謎が解けたのです。

ガンダムオリジン』ではアムロたちが日本旅行をしているのですがそれが『Gレコ』のラストと妙にかぶってるように感じられたのです。

実際にはほとんど似てはいないのですがw主人公が戦い終わって地球を旅する、というイメージが共通して感じられたのでした。

しかも追加映像では砂漠でノレドと再会しますが『オリジン』では鳥取砂丘アムロとフラウが再会します。ここは似ていると言ってもいいでしょう。

『オリジン』ラストは2014年連載で『Gレコ』放送最期は2015年となるとこの共通点は示し合わせたのか偶然かはたまた富野監督が安彦『オリジン』を読んで影響を受けたのか。

偶然、というのが当たりだとは思いますが、私としては嬉しい偶然でした。

 

『Gレコ』何度も書いた気がしますが放送直後は賛否両論で「つまらない」と言い放つ有名人の声もあったのですが何度観ても面白いと思います。

確かに新しいタイプの作品なので古い勧善懲悪的な明確な設定がないと読み込めない旧型の人たちにはわかりにくいのかもしれません。

例えばルインの「クンタラ」などは食用人肉などという怖ろしい設定なのに特にその描写がないのは「そうした過去の怨念」をルインが降り切れるかどうかを描こうとしているからだと思えます。

ルインは優れた才能を持ち容姿端麗でマスクを着けていることからでも容易に「シャア」の立ち位置だと解ります。

シャアは類まれな逸材だったのに親の仇特に母親への執着から人生を捨ててしまったと言えます。

だからこそ逸材になり得たのかもしれませんが。

シャアがルインのようにある時期にその怨念を捨てることができたのなら。もしかしたらララァを失わずにすんだのかもしれません。

そしてその損失はあまりにも重いものでした。

本作のルインはシャアを戒めとしての存在といえます。

しかしキャラ立ちとしてはその分軽く小さくなってしまうという欠点もあります。

どうしてもキャラクターというのは極端な方が面白いのですね。

 

そういうわけでベルリもアムロのような存在にはなりえません。

しかしそれで良いのです。

人間はキャラクターを立てるために存在するのではないのです。

しかしお母さんは面白くなりました。

 

フラウはアムロを諦めなくてはならなかったけどノレドはあきらめません。

それもまた良いことです。

 

人間はキャラを立てるためではなく幸福になるために生きているのです。

 

 

 

 

『LAMB ラム』バルディミール・ヨハンソン

とても面白く良い映画見つけてよかった。

なんとなく迷っていたのですが観始めたら止めることなく観てしまいました。

 

アマゾンプライムにて鑑賞。

ネタバレしますのでご注意を。

 

ポスターに写っているマリアという女性が優し気に子羊を抱いている、という図はそれほどキリスト教に詳しくなくても連想できるものです。

場所はアイスランドの牧場、お隣さんなどの姿もなく一組の中年夫婦だけが広大な牧場で羊を飼って暮らしている。

ふたりには娘がいたようなのだが幼い頃に死なせてしまい傷心のまま日々の仕事に追われている。

そんなある日羊たちの出産が続く中に奇妙な姿の子が生まれた。

 

様々な比喩を含んだ作品で明確な言及がなされることはないので観る者が解釈をしていかねばならない。

果たしてこの「奇妙な姿の子ども」は何者なのだろうか。

 

キリスト教では「子羊」はクリスチャンそのもの或いは人間そのものを意味しているでしょう。

キリストは馬小屋で生まれたのだがこの子供は羊小屋で生まれる。

マリア夫妻はこの子供を我が子として育て始める。つけられた名前は「アダ」死んでしまった娘の名前を付けたのだがこれは最初の人間である「アダム」を連想させる。

 

しかしマリアは本当の母親である雌羊がアダを気にしてまとわりつくのが煩わしく雌羊を殺してしまうという罪を犯す。

夫婦は授かった子ども「アダ」を愛情深く育てていくがある日夫インクヴァルの弟ペートゥルがやってきてアダの存在に疑問を持つ。

マリアは言い寄ってくるペートゥルを追い出してしまうのだがその間に「成人した羊男」が登場してインクヴァルを撃ち殺すのだ。

 

他の方のレビューを見るとこの羊男を「悪魔」だと解釈しているのが多かったのですが私には羊男は悪魔に思えませんでした。悪魔は羊ではなくヤギだから、というのもありますが。むしろ羊男は「神」そのものなのではないのでしょうか。

明らかに罪を犯したのはマリア・インクヴァル夫妻だからです。

しかもどうやらマリアは妊娠しているらしい。

もし本当の子どもが生まれたら身勝手なマリア夫妻が今度は「アダ」をどうするのか?私にはふたりがそのままアダを育てていくとは思えません。アダの母親をあっさり殺してしまうような人間です。

 

羊男がアダを取り戻したのは当然だと思います。

羊男をギリシャ神話になぞらえているのも散見されましたがそれよりも羊男もまたアダのように生まれそして「捨てられた」のではないでしょうか。

 

いくら子供が欲しかったとはいえ母羊から勝手に子供を奪ってしまい邪魔な母羊を殺したのなら父親に撃ち殺されてしまうのは当然です。

 

マリア夫妻には幸福な判断をしてほしかった。

マリアが母羊を殺してしまいそれを黙っているのは「カインの罪」を思わせます。

アダを可愛がって母羊も可愛がって欲しかった。

でも人間は独り占めしてしまいたい欲望が強すぎるのです。

やはり共産主義は無理ってことでもありますね。

 

 

 

 

『主戦場』ミキ・デザキ

いきなり『主戦場』の配信が表示され慌てて観てしまいました。

が観始めてすっかり時機を逸してしまった感が心に迫ってきたのは否めませんでした。

この配信もさらに遅れてはますます観客が離れてしまうことを恐れての判断なのでは、と考えます。勿論それは正しい考えでしょう。観る側もできるだけ早く観たほうがまだ批判の気持ちが残っているのではないでしょうか。

 

とはいえ観る価値のあるドキュメンタリーであるのは間違いありません。

本作中「歴史修正主義者」と称される人々にここまで赤裸々な証言をさせた技量に驚きますし畳みかけるような編集も痛快です。

しかし本作が話題になった頃は本当に彼ら歴史修正主義者が活躍しSNS上も荒れ果てていたのですが今現在はどうでしょうか。

安倍首相は念願の(と言われる)結局憲法改正もできず辞任しその後思いもかけない事件「統一教会信者の子どもからの暗殺」で他界します。

統一教会は韓国の宗教です。ここでネトウヨたちが立ち上がるのか!という思惑はまったく的外れで(とは思っていましたが)彼らネトウヨはこの事態になんの抗議声明も出さず静まり返ってしまいました。

従軍慰安婦問題、徴用工問題の際にあれほど喚いたネトウヨ歴史修正主義者たちは敬愛する安倍元首相の暗殺を導いた韓国宗統一教会には沈黙してしまうのです。

 

これはいったいどういうことなのでしょうか。今こそ彼らは騒ぎ立て「韓国の宗教が我らの安倍氏を死に至らしめた」と抗議してもおかしくはなかったのです。これは歴史修正ではなく事実なのですから。それとも歴史修正主義者は真実も修正するのでしょうか。

 

結局、従軍慰安婦問題へのネトウヨそして本作に登場する歴史修正主義者の考えと行動には何の意味もなかったのではないでしょうか。

ただただ安倍氏をリーダーに掲げ自分たちで甘い夢を見ていたかった。そのリーダーが失われ夢が見れなくなってしまったのかもしれません。

本作でのラスボスと言われるのが加瀬英明氏らしいです。私はまったく存じ上げなかったのですが(この方も誰の本も読まないという人なのですが)このラスボス氏が去年2022年の11月に亡くなられています。

つまり歴史修正主義者のリーダーとラスボスが亡くなってしまっているのです。これでは彼らはもう帆を失った船同様でどこにも行けないのです。

 

私たちがよく名前を聞く杉田水脈氏はかつてあれほど差別発言を繰り返していたために今現在は政務官を辞任した形となっていて映像を見ても侘し気に見えます。

 

つまりはなんだったのでしょうか。

 

このドキュメンタリーを観て「さらに分断を焚きつけている」という感想を持った人もいたようですがこれはイデオロギーの戦い、などというものではなかったのかもしれません。論戦で勝ち負けが決まったというより年を取って亡くなり、時代が移り変わって排除されていなくなりすっかり力を無くしたのです。

 

歴史が移り変わる時、何かしら腐った膿のようなものが出てしまうようにも感じます。

 

書いてきて自分だけで「なるほど」という思いにも至りました。

『主戦場』というのはなんの戦いだったのか。

歴史修正主義者」たちは結局流れゆく「歴史」に勝てなかっただけなのかもしれません。

 

 

 

『MOTHER マザー』大森立嗣

若い頃この映画を観ていたらその内容に物凄く賞賛していたのですがすっかり年を取ったのを感じました。

 

映画の作り方としてはもうすばらしくて大絶賛です。

昨今の日本映画のていたらくがまったくない優れた才能と技術を感じます。

映画の評価としては満点以上の点数を付けます。

やるせない気持ちにさせ問題提議を引き起こさせる威力としても満点です。

しかし年を取った人間としてこの映画を好きだとは言いたくないのです。

それすらもこの映画の凄さだとも思いますが。

 

例えば昨日観た『犬王』は本作に比べればぬるいのです。(『犬王』のネタバレします)

 

『犬王』では父が毒親で我が子を犠牲にしてしまうのですが犬王自身がそれを見出し父に報復することで観る者は留飲を下げることができます。

しかし本作での「子ども」は自ら母親の犠牲になることを選んでしまうのです。

この作品は実話を元にしているということでこの少年の意思は決して虚偽ではない、と大森監督は思ったのでしょう。

『犬王』では「父親と息子」であり本作は「母親と息子」であるのも何かしら影響があるのかもしれません。

特に最期の少年の言葉「僕はお母さんが好きでした」というのは大森監督が「最終的に生まれてきたセリフだ」と言われています。大森監督は他作品にも見られるようにどこか「母親に対する息子の強い愛情」を信じていて望んでいるようにも思えます。

というのは世の中にはむしろ母親を嫌う息子もまたいるからですが「息子というのは母親を恋人のように慕うものだ」という意識は根強いものでもあるようです。

 

つい昨日観た『犬王』を比較作品に持ち出しましたがこの二作品は共通点もあります。

それはこれまでの様々な他作品の映像が多く感じられることです。

『犬王』が『どろろ』や『火の鳥』やクイーンの歌、バレエ『ボレロ』などを彷彿とさせたように本作も色々な映画が寄り集まって作られたように感じられます。

特に思い起こされるのはケン・ローチSWEET SIXTEEN』です。この映画の主人公はタイトル通りの16歳でやはりダメダメな母親を守りたい一心で悪事を働いてしまうのです。

しかし本作は『SWEET SIXTEEN』よりも母親に焦点が強く当てられていてしかも彼女は若く美貌で観る者により少年と母親の性的なつながり(映画ではまったく暗示されてもいないのですが)を想像させてしまうのは日本人ならではの感覚なのでしょうか。

 

そして『犬王』に戻りますが『犬王』では父と息子は微塵もそうした感覚はないわけで(当然と言えば当然ですが)友魚のほうは父親とは良い関係でありながらだからこそ悲惨な最期を迎えます。一方犬王は己を犠牲にした父親に報復し友人を見放す形で権力に従うわけですが、この方程式で言えば本作の少年もまた母親と切れないがゆえに悲惨な最期を迎えてしまうわけです。人間関係と出世はややこしいわけです。

 

さてこの批評記事もややこしくなってきました。

本作の少年は何度も何度も母親との関係を切ることが出来そうになります。そのたびに私たちは「もう少しだもう少しで切れるがんばれ」と唱え続けたはずです。

しかし彼はついにその絆を断つことができず最後まで「お母さんが好きだった」の一念で地獄へ落ちる決意をするのです。

さて彼は幸福なのでしょうか。

少なくとも12年の刑期の間は幸福なのかもしれません。

でもその後は?

計算では彼はまだ29歳で母親もまだ生きているでしょう。

彼はまた母親とつながるのでしょう。

 

それを幸福と思えない私たちは不幸なのでしょうか。

 

よくわかりません。

 

少なくとも『犬王』の最期に私は希望を見出したのですが本作ではぞっとしただけでした。

SWEET SIXTEEN』の時のじんわり感もなかったのでした。

 

『マザー』というタイトルは何故かとても怖いのです。

『犬王』湯浅政明

楽しみました。

ずっと観たいと思っていたものを今年初めての映画鑑賞にできて嬉しい限りです。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

湯浅監督作品は一度パッと見てすぐに理解できるものではないと思っていますが本作は最近観ていた他作品とのつながりも感じてなるほどと思えるものでした。

 

やはり最近のドラマの核はどうしても「親の因果が子に報い」にあると思えます。

「身勝手な親の行動によって子どもが苦しむ」という題材はこれまでどれほど描かれてきたでしょうか。

かつてその親を呼ぶ呼称がなかったのが最近は「毒親」という言葉で人々に理解され始めました。

犬王の父親はまさに毒親です。いえば母親もその父から逃れていなかったという失敗をしているとも言えます。

そのために犬王は「異形」という宿命を背負わされ自分の行いによって少しずつその宿命(ここでは「呪」と呼ばれる)をはぎ取っていきます。

一方の友魚は自らの行動で目を失ってしまった、とも言えますが父親の霊が彼を守ってもいます。ここが二人の違いです。

 

本作のふたりの主人公はいわゆる障碍者です。

ひとりは盲目で一人はあり得ないほど体形が歪みその顔は見られないほど醜いということで常に面で隠されているほどです。

友魚の盲目以上の重い苦しみを犬王は持ちながら犬王はいつも明るく前向きです。

 

やがて二人は出会い出会った途端に深い友情でつながります。

犬王の醜い顔は友魚には見えないのです。

 

琵琶を弾く友魚は友一という名前もありますが犬王と友達になってから「友有(ともあり)」と名乗るのです。

 

琵琶を弾き歌う友有と犬王の舞は民衆に愛されついに帝の前でのお披露目を依頼されるのです。

しかしふたりの楽曲と舞は帝が望む平家物語と違うことから再演することを禁じられてしまうのです。

琵琶法師の友有は「お前は友有ではなくもとの友魚に戻れ」という師兄の忠告を撥ねつけ捕らえられて死罪となります。

一方の犬王は帝の寵愛を受けることを選択しその後も活躍する道を歩みました。

 

別の人生を選んだふたりでしたが長い長い時を経て再び出会うのでした。

 

なにかがかなうたびに体が再現されるという設定が『どろろ』を思わせてしまう。

音楽がロックである。ダンスがバレエを模している、などの演出に反感を持ってしまった人はこの作品世界に入れなくなってしまうのは他の方のレビューを見て残念なことですが私はこの選択は間違ってはいないと思っています。

もしかしたらもっと時間が経つとしっくりするのかもしれません。

 

もちろん相性の問題という話なのなら私はとても楽しめました。

そして何度も観なおしてみたいと思っています。

 

逆にペア作品とも言えたテレビアニメ『平家物語』がどうしても私は受け入れ難かったのですが本作を観てやっと少しその意味合いが解った気もします。

本作品が非常に男性的なものだったのであの作品では女性のつながりが描かれてどちらも現在に通じていたのですね。

私は湯浅作品は共感しやすいのですが山田尚子作品との共通点が少ないようです。

琵琶法師が主人公としているのも同じなのですが。

 

相変わらず湯浅監督作品は賛否が激しく分かれるのですがむしろ現在は激しく分かれる作品のほうが良いのです。

 

アヴちゃんと森山未來は期待したとおりそれ以上に良かった。

アニメ史に残る作品です。

2022年鑑賞記録振り返る その5

4回にわたって一年を振り返りました。

さてそれでは今年私が観たコンテンツでの一等賞を選んでみます。

見落としもあるかもしれませんがw

 

テレビアニメ部門

記事でも書きましたが今年は何といっても『チェンソーマン』と『水星の魔女』です。が、私個人としては今年冒頭に鑑賞した『時光代理人』を一等賞に掲げたい。

久しぶりにブロマンスというべきかBLというべきかのトキメキを感じさせてもらえました。李豪凌監督に今後も期待していきます。

 

劇場版アニメ部門

ポーラー・エクスプレス

これも今年初頭だったので今年鑑賞なのを忘れそうでした。

ゼメキス監督の凄さを思い知りました。

ずっと夢を見ているような素晴らしいアニメ映画です。

 

テレビドラマ部門

今年はもう中国ドラマをずーっと観ていた感じでした。

どれも面白くて選び難いのです。

『如懿伝』『エイラク』しかしやはり『君、花海棠の紅にあらず」を一等にしたいと思います。

 

映画部門

ドラマが多かったせいで映画の本数は少ない気がします。

大森立嗣『星の子』と伊丹十三『静かな生活』の二作品でしょうか。

時代的にはやはり『星の子』

日本映画に大きな不満を持ちながら感激したのは日本映画になりました。

 

マンガ部門

チェンソーマン』ですね。

 

戦争が続き暴力事件が続いてもいます。

タモリ氏が「来年は新しい戦前になる」と発言され話題になっているようです。

予言にならないことを祈りたいですが多くの人がこの言葉を真実だと思っているのではないでしょうか。

自分自身は長く生きてきてあきらめもつきますが若い人たちにはもっと明るい未来を感じて欲しいです。

いや自分だってもっと映画やアニメを楽しみたいです。

2023年が良き年になりますように。

世界中の人々が特に子どもたちが幸福で過ごせますように。

ワンコやにゃんこや動物たち植物たちにも幸いがありますように。

2022年もあとわずか。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

皆さんよいお年を!