若い頃この映画を観ていたらその内容に物凄く賞賛していたのですがすっかり年を取ったのを感じました。
映画の作り方としてはもうすばらしくて大絶賛です。
昨今の日本映画のていたらくがまったくない優れた才能と技術を感じます。
映画の評価としては満点以上の点数を付けます。
やるせない気持ちにさせ問題提議を引き起こさせる威力としても満点です。
しかし年を取った人間としてこの映画を好きだとは言いたくないのです。
それすらもこの映画の凄さだとも思いますが。
例えば昨日観た『犬王』は本作に比べればぬるいのです。(『犬王』のネタバレします)
『犬王』では父が毒親で我が子を犠牲にしてしまうのですが犬王自身がそれを見出し父に報復することで観る者は留飲を下げることができます。
しかし本作での「子ども」は自ら母親の犠牲になることを選んでしまうのです。
この作品は実話を元にしているということでこの少年の意思は決して虚偽ではない、と大森監督は思ったのでしょう。
『犬王』では「父親と息子」であり本作は「母親と息子」であるのも何かしら影響があるのかもしれません。
特に最期の少年の言葉「僕はお母さんが好きでした」というのは大森監督が「最終的に生まれてきたセリフだ」と言われています。大森監督は他作品にも見られるようにどこか「母親に対する息子の強い愛情」を信じていて望んでいるようにも思えます。
というのは世の中にはむしろ母親を嫌う息子もまたいるからですが「息子というのは母親を恋人のように慕うものだ」という意識は根強いものでもあるようです。
つい昨日観た『犬王』を比較作品に持ち出しましたがこの二作品は共通点もあります。
それはこれまでの様々な他作品の映像が多く感じられることです。
『犬王』が『どろろ』や『火の鳥』やクイーンの歌、バレエ『ボレロ』などを彷彿とさせたように本作も色々な映画が寄り集まって作られたように感じられます。
特に思い起こされるのはケン・ローチ『SWEET SIXTEEN』です。この映画の主人公はタイトル通りの16歳でやはりダメダメな母親を守りたい一心で悪事を働いてしまうのです。
しかし本作は『SWEET SIXTEEN』よりも母親に焦点が強く当てられていてしかも彼女は若く美貌で観る者により少年と母親の性的なつながり(映画ではまったく暗示されてもいないのですが)を想像させてしまうのは日本人ならではの感覚なのでしょうか。
そして『犬王』に戻りますが『犬王』では父と息子は微塵もそうした感覚はないわけで(当然と言えば当然ですが)友魚のほうは父親とは良い関係でありながらだからこそ悲惨な最期を迎えます。一方犬王は己を犠牲にした父親に報復し友人を見放す形で権力に従うわけですが、この方程式で言えば本作の少年もまた母親と切れないがゆえに悲惨な最期を迎えてしまうわけです。人間関係と出世はややこしいわけです。
さてこの批評記事もややこしくなってきました。
本作の少年は何度も何度も母親との関係を切ることが出来そうになります。そのたびに私たちは「もう少しだもう少しで切れるがんばれ」と唱え続けたはずです。
しかし彼はついにその絆を断つことができず最後まで「お母さんが好きだった」の一念で地獄へ落ちる決意をするのです。
さて彼は幸福なのでしょうか。
少なくとも12年の刑期の間は幸福なのかもしれません。
でもその後は?
計算では彼はまだ29歳で母親もまだ生きているでしょう。
彼はまた母親とつながるのでしょう。
それを幸福と思えない私たちは不幸なのでしょうか。
よくわかりません。
少なくとも『犬王』の最期に私は希望を見出したのですが本作ではぞっとしただけでした。
『SWEET SIXTEEN』の時のじんわり感もなかったのでした。
『マザー』というタイトルは何故かとても怖いのです。