ガエル記

散策

『松本清張の「遺言」』原武史 その2

つづけます。

 

ネタバレします。

 

 

第三講 「秩父」───弟とクーデター

小説の舞台となる埼玉県「梅広」という架空の場所を現在の東松山であると推理して語られていく。

ここに謎の信仰宗教組織「月辰会」の本部がある、とされている。

月辰会はアマテラスの弟ツクヨミを祀っている。

これなら不敬罪に引っかかる気遣いはない。

 

ツクヨミを祭神とした月辰会教祖の秋元伍一は自らの名を平田有信に改めた。これは江戸時代の国学者平田篤胤にちなんだものだ。

そして平田篤胤は『霊の真柱』の中でツクヨミとスサノオを同一神とみなしイザナギから生まれたのはアマテラスとツクヨミ=スサノオの二神とした。

埼玉県にはスサノオを祀る氷川神社がたくさんあるらしい。

梅広という町もまさにこの氷川神社の祭祀圏にあたる。

教祖が篤胤と同じ平田姓を名乗りツクヨミを出してきて梅広に本部を置くというのは実はスサノオに関係がある、と原氏は書く。

 

皇祖神であり国家神道の中心であるアマテラスに対抗する神として月辰会はツクヨミを用いている。それを大本ではスサノオにしているわけだがいずれにせよアンチ天皇となる神を持ってきてその神を信奉する教団がやがて宮中に食い込んでいくという構図になる。

 

この構図を宮中の側から見ると昭和天皇の次弟である秩父宮が貞明皇后と共に「影の主役」というべき役割を担うことになる。

この小説の背後には秩父宮が見え隠れしている。

 

小説内では一か所だけ貞明皇后が秩父宮がお気に入りであるという記述が登場するが皇后は実際天皇にいずれ退位してもらい秩父宮を摂政にしたいと思っていたという。

とはいえ当人秩父宮は結核療養のため御殿場に籠ってしまったのだがそれでも皇后は思い入れが強かったのである。

 

敗戦後、1948年貞明皇后は前年に大日本蚕糸会の総裁になったのに伴い蚕糸絹業の奨励を目的として地方視察をはじめる。

その第一回目に訪問したのが埼玉県であった。

途上、皇后は秩父神社を参拝している。

秩父宮神社は中世以降に妙見菩薩信仰と習合して「秩父妙見宮」と呼ばれていた。

妙見菩薩信仰とは「北辰」を祀る信仰。「北辰」とは「北極星」のことで北斗七星も含める場合もある。

地上から見ると北極星はほとんど動かず空の星は北極星のまわりを回転しているように見えることから古代中国では「北辰」が宇宙の中心だと考えられていた。

妙見菩薩は「北辰」を神格化したものである。ちなみに神格化された「北辰」を「天皇大帝」といい天皇という称号の起源の一つではないかと考えられている。

 

秩父宮が昭和史で注目される一つの事件は「二・二六事件」である。

この辺りのイメージは『昭和天皇物語』で思いうかべてしまう。

 

広島県双三郡三次町(現・三次市)が舞台の一つとして出てくる。

これもツクヨミの隠喩として読める。三人兄弟の次弟つまり秩父宮やツクヨミと読める。

 

 

第四講 「吉野」───南朝と自称天皇

北村幸子が投身自殺をしたと思われる吉野川付近に筆者原氏は訪れる。

タクシーの運転士に「お客さん天皇のこと調べてるの?」と聞かれているのがおもしろい。

運転士は原氏を後醍醐天皇とは別の天皇をまつる神社に連れて行ってくれる。

南国栖の浄見原神社という場所である。この神社の祭神は天武天皇であった。

のちに天武天皇となる大海人皇子が壬申の乱のときに挙兵したのが吉野である。

そして天皇の弟が皇位を簒奪することになる。

 

鎌倉時代後期に天皇家の血統は二つに分かれる。後嵯峨上皇が院政の後継者を指名せずに死去してしまったので後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山上皇の流れをくむ大覚寺統に分裂した。

以降、両統は皇位を巡って争う。

見るに見かねた幕府は調停案を出し1318年大覚寺統の後醍醐天皇が即位。

足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は1333年建武の新政を行う。

しかし独裁制だったため武士の反発を買い、足利尊氏は新政府に反旗を翻す。

北畠顕家に敗れた尊氏はいったん九州に逃れますが勢力を取り戻し湊川の戦いで楠木正成を破り京都を制圧する。

尊氏は後醍醐天皇を廃し持明院統の光明天皇を擁立。

後醍醐天皇は尊氏から「三種の神器」を渡すよう迫られ光明天皇にわたすが1336年京都から脱出し吉野にこもり「渡した神器は偽物で実は私が本物を持っている」と主張。

これを南朝と呼ぶ。

以後、六十年にわたって京都の朝廷である北朝と南朝が抗争を続けたのだ。

 

1392年足利幕府三代将軍義満の呼びかけに南北朝の合体が実現したものに幕府は南朝皇族の子孫を絶つ。

不満に思った「後南朝」はたびたび反旗を翻す。

1457年まで通算すれば百二十年いじょうにもわたって南朝は続いたのである。

 

さらに大正後期から昭和初期にかけて自分が天皇であるとする熊沢寛道があらわれる。

清張はこうした主張には触れていない。