
本作、一番のイケメンが裕仁親王である。
ネタバレします。
宮城では摂政の宮に山本権兵衛が加藤総理急死のご報告に参上していた。
次の総理は山本自身だと聞き裕仁は「総理についたあかつきには陛下のもとにいの一番でご挨拶に参内してほしい」と頼んだ。
大正12年9月1日午前11時56分。
天皇は空を見上げていた。
皇后が「さ、お上。お昼の御膳を」と言った次の瞬間、激しい揺れが襲った。
皇后は天皇を外へ運び出す。
声をかけてきた四竈に東京へ「陛下はご無事だと伝えて」と言い「そして裕仁の安否を確かめなさい」と続けた。
電話がつながらないという四竈に警備の近衛部隊に伝書鳩を飛ばすように頼むのですと答える。
そこに第一師団長・石光真臣が報告に来た。裕仁は国民の様子を問う。
「目下、東京市内70余か所から火災が発生、その焼けしきる炎の仲を何万人もの人々が逃げ回っております」

大正12年(1923年)9月2日
地震発生から一夜明けても火災の勢いは止まることはなかった。
赤坂離宮内広芝御茶屋にて、混乱の仲山本内閣は慌ただしく発足。第22代内閣総理大臣、山本権兵衛。
その時皇后が送らせた伝書鳩による書状が届く。
「陛下は御安泰。安心なされ 母」
母という文字に裕仁は心動いたのではなかろうか。
裕仁もまた飛行機によって書状をいれた器を落下させ無事を伝えた。
皇后の懸念は国民に希望を与えることができるのか、にあった。
多くの者が東京を離れていった。
が、内務大臣帝都復興院総裁、後藤新平は「遷都はすべきでない。日本の首都はあくまで東京」として「これを機会に帝都の大改造が必要かと」と申し上げる。
「とにかく可能な限り早く復旧を進めてほしい」という摂政の宮に後藤は返した。
「お言葉ですが摂政の宮、復旧ではございません。復興でございます」
皇后は上野駅につきそのまま被災者の慰問へと向かう。
それが国母としての務めであるとの信念であった。
摂政の宮は牧野大臣に今秋予定していた結婚式を延期したいと告げた。
後藤大臣は摂政の宮に「復旧の計画はスペインのバルセローザ―」と伝える。バルセロナのことである。
後藤大臣は最新式の都市計画のもとに造られたというバルセロナを骨組みにしたいという考えを述べる。
そしてそのアイディアを話してくれた林学博士本多静六に原案をあさってまでにと頼む。
本多博士は不眠不休で東京復興都市計画の骨子になるものを作成した。その復興予算はざっと41億(現在の約14兆4千億円)この返事に後藤は「がはは、そりゃあいい!復興にみみっちい計算などいらん。ドーンといこうじゃないか」と答える。
杉浦重剛は長い間腎臓を患っており来週入院することとなった。
最後の御進講として杉浦は良子女王を訪れた。
杉浦は「唐突ですが殿下のお好きなところを三つあげていただきたい」と言い出す。
「誠実なところ、清潔なところ、優しいところ」という答えに杉浦は納得せず本音をおっしゃってくだされと返す。
良子は考え「道理を知る能力に長けているところ、他人に対していたわる心、私を守ってくださる強い意志」と答えた。
杉浦は「まさに智・仁・勇ですな。日本の皇室は智・仁・勇をもって立たなければなりません。裕仁親王は皇室の長にふさわしい人物」と言い「よくぞ言ってくださった」と礼を述べた。
御膳9時35分、東宮侍従長の入江為守と同乗して車を走らせていた裕仁は暴漢に襲われる。
摂政の宮の乗る車に声援を送っていた人々の間にその男は仕込みステッキ銃を持って立っていた。車の窓ガラス越しに発砲したが窓ガラスがひび割れ同乗の入江の顔に細かいガラス破片が飛び出血させたが裕仁は無事だった。
報を聞き驚く牧野大臣に「空砲だと思ったよ」とだけ告げて裕仁はその日の予定をこなしていった。
山本内閣はこの不祥事の責任を負って総辞職した。
摂政の宮は引き留めたが「国民が我々を許しません」という意志であった。
大正13年(1924年)1月26日、裕仁親王・良子女王結婚。
質素な式であった。
ふたりだけの夕食の後、良子を別室で待たせて裕仁は甘露寺に相談する。
「これから良子殿をどう呼べばいいのか」
「それを私に訊きますか」
しばらくして入ってきた裕仁は「良・・・宮(ながみや)これからそう呼びたいと思うがいいですか」とたずね良子は承諾。そしてふたりで窓から見える提灯行列を眺めた。
大正13年7月。
節子皇后が突如(また)女子学習院を訪れる。
松平節子を見に来たのである。
外交官松平恆雄令嬢である。
松浦校長は「第二皇子秩父宮雍仁親王のお妃選びか」と考えた。
皇后は裕仁の妃に選んだ良子の父親の無神経な振る舞いに立腹し雍仁の妃だけはと考えていた。
だがこの選択は牧野宮内大臣に反対される。
それは松平節子の家系が朝廷に歯向かった会津藩でありかつては藩主の血統なれど今は平民として暮らしている存在だったからだ。
このエピソードについてはかつてこのブログ記事で書いた『銀のボンボニエール』に詳しい。
なので秩父宮とそのお妃節子後に勢津子(皇后と同じ漢字だったために改められた)は私にとってはちょっと懐かしい二人なのであった。
さてこうして皇后は牧野大臣を通して山川健次郎男爵(博士)が会津藩出身で松平恆雄と親友であるのを利用して節子の調査をしてほしいと頼んだのである。
山川は「候補であって決定ではない」とされながらも「戊辰戦争から56年、会津の者たちはいまだに賊軍の汚名に泣かされています。もしも会津の娘が秩父宮の妃に選ばれたなら会津の者は皆、泣くでしょう」と涙を流した。
(いやだからまだ決定じゃないというに!)
(そのくらい大変なことなんだなあ)
通学はひとりで電車に乗る、贅沢はしない、人に頼らない、父親松平恆雄氏の教育方針と聞き皇后は「会津のおなごは芯が通っている」と感心する。
明けて5月、雍仁は英国に2年間留学する予定である。皇后はその前に婚約を決定事項にしたいと思っていた。