ガエル記

散策

『昭和天皇物語』能條 純一 その4

カッコいいとこ見せる皇太子です。

 

 

ネタバレします。

 

 

母方から薩摩の血統を継ぐ久邇宮良子を絶対に皇太子妃にさせたくない長州の山縣有朋に「良子の兄弟に色弱の疑いがある」と報告が入る。

おそらく島津家に色弱の遺伝子を持つ疑いがあるとしてならば良子女王にもその可能性がある。当時色弱は将校になれなかった。

この報を受けた山縣は皇太子の皇子が、ゆくゆくは国軍を率いる皇子が軍人になれないなどと、これほど悲しいことがあるか。日本の天皇は永劫不変の存在なのに」と言って涙をにじませた。

「はあ?」と言ってやりたいとこである。

 

一方、皇后に従って皇太子と良子の縁談を進めてきた波多野宮内大臣が別の名目で辞任させられてしまう。

そしてその席で反論した久邇宮を指して「殿下、あのような野蛮なお方を‶義父”と呼びとうはありませんな」と侮蔑した山縣に対し皇太子は前を見据えて笑っていたのである。

 

さらに久邇宮邸敷地内に建てられた良子が皇太子妃になるための御学問所はお花御殿と呼ばれその講義は杉浦十号が担当した。

その杉浦のもとにも宮内省眼科医からの意見書が届いた。その内容を読み杉浦は激怒する。

この逸話で良子の描写がないのがとても良い。本作は省略のルールが徹底している。

 

しかしこちらはある。

帝国議会議事堂で原敬総理は波多野宮内前大臣と会見する。

波多野は宮内大臣を辞任することになり後任は中村雄次郎、山縣の手下官僚だった。

波多野はここで原敬総理に良子女王の色弱遺伝子疑いの件を持ち出す。

原敬は「山縣さんの陛下に対するある種の忠誠心は我々には到底理解できないものがる」

そうだったのか。理解できなかった。

続けて原敬

「明治国家を創ったのはまぎれもなく大久保利通伊藤博文山縣有朋の三人です。ですが山縣有朋、ちと長く生きすぎたのかもしれませんね」

 

が、山縣有朋久邇宮良子婚約解消に突き進んでいく。

伏見宮貞愛親王を使者にした。

彼の娘も以前今上陛下とのご婚約野際に病の疑いありとされ明治大帝の御下命により辞退したと伝える。

しかし久邇宮邦彦は「今回は陛下の御決定などではなく山縣有朋ぞ」と言い放った。

 

杉浦重剛は御学問所に辞表を出した。

杉浦は東郷総裁に対し「倫理とは実人生で実践してこそ初めて倫理と呼べます」ここで元老たちの動きに迎合することは裕仁殿下への講義を水泡に帰すことになる。

もしも婚約破棄となったら良子女王がどれほど傷つくことか。おそらく自らの手で自らの命を絶つことでしょう。然るに私はどんな手を打ってでも諌止します。

 

辞表を受け取った東郷も「皇室を持畏れぬ山縣さんらの不遜な態度は目に余るものがある。時代は確実に変わっていくのも知らずにな」とつぶやいた。

強い忠誠心を持ちながら不遜な態度をする山縣、分裂してる。

 

御学問所を出た杉浦はそこで裕仁に会う。

裕仁は「杉浦先生」と呼びかけ「命をかけて国を守るもひとりのおなごを守るも男子の本懐」と言った。

杉浦は「ほお、良い言葉ですな。いったいどなたのお言葉で」と問う。

しかしそれは杉浦自身が講義したものだった。

裕仁は「倫理とは実践して初めて倫理と呼べる、そうでしたね」と続けた。

「御意!」

 

杉浦は宮城、二重橋前で座り込みをし嘉仁天皇のご病気平癒祈願、そして皇太子殿下と良子女王の婚儀を小田原の黒いキツネに邪魔されぬよう祈願しはじめ通りすがる人々もこれに倣ったのである。

 

この状況を原敬総理に報告した宮内大臣・中村雄次郎は辞任を表明。

小田原ににいた山縣有朋は急ぎ東京へ向かった。

 

宮城(皇居)では前例なき事態が起こっていた。予告なしに裕仁皇太子が参内したのである。

直接母上にお礼をしたいと伝える。「私と久邇宮良子との婚約を快く承諾してくださった」

これに皇后は笑い出す。「色弱遺伝子疑いの良子との婚儀に反対するのでは、と手を打ちにきたんだね」

「仮にそういう事になれば国民は天皇家に対しさぞや失望することでしょう。私は国民を裏切りたくはありません」

皇后は裕仁の頭の良さに感心する。

皇太子は続けた。「母上、元老山縣公と会う手筈をお願いできませんか」

 

ううむ。皇后がかっこいい。裕仁をいじめて嫌な人だと思っていたがかっこいい。

なぜかキシリア閣下を思い出してしまったよ。

 

山縣有朋は軍服に身を固め帝国議事堂の原敬総理と会見。

「原!中村のクビを切ってうやむやにするつもりか。おぬしに問う。皇太子と良子女王との婚儀は是か。非か」

原敬総理は「非でございます。しかしながら」と続けた。この問題を国会で議論するのは避けなければならずもしそうなれば政権の命運ばかりでなく天皇家の威厳を損なう恐れがあります」と答える。

山縣がこの答えに怒っていたその時「緊急なるご伝達です」との報せが入った。

皇后が山縣に会いたいというものだった。

「至急、宮城に参内せよと?」

 

急ぎ宮城に車を走らせた山縣を出迎えたのは見知らぬひとりの男であった。

不審がる山縣は皇后の前に案内される。

皇后陛下、お久しゅうございます」という山縣に「もっとこちらへ」と呼びかけた。

「山縣公、この後の事、生涯、口に出すのは控えてほしい。私も山縣公もお互い、墓場まで持っていく秘密事。決して天皇家の歴史には刻まない」

そして「約束できますね」という皇后に山縣は「はあ・・・」という情けない声を出す。

「約束できるならその扉を開けなさい」と告げた。

山縣がその扉を開けるとその部屋の奥に立っていたのは皇太子裕仁であった。

 

裕仁は山縣に対し「今日、この日本国があるのは山縣公、あなたの血と汗と涙があっての事、心より感謝します」と話した。

山縣は「有難きお言葉。しかし人は私を権力の亡者と申します。この山縣、誰よりも権力が好きであります。誰にも負けない皇室への強い忠誠心でこの日本国を築いてまいりました。殿下、皇統存続のために申し上げます。どうか久邇宮良子女王との婚儀は」

といいかけたところで裕仁

「山縣公、良子でよいのだ」

後を継げない山縣に「もう一度言う。良子でよい」

 

退出した山縣は皇后に「この山縣、今、明治大帝とお会いして参りました。お約束はしかと」と告げ去っていった。

 

新聞には「御婚約御変更無し」との見出しが飾られた。

宮内大臣辞職とも。

 

東宮御学問所では原敬総理大臣が教壇に立って皇太子に話しかけた。

「殿下、世界は広うございます。様々な歴史があり様々な文化があります。殿下、今こそご洋行なさいませ。百聞は一見にしかず。各国をご視察なされることは後々、殿下のかけがえのない財産となることでしょう」

浜尾氏はこれに抗議。

「殿下、まずは欧州外遊。内閣総理大臣として推挙します」

 

原総理は直々に皇后に会い皇太子の欧州外遊を願い出る。

しかし天皇のご容態が芳しくない現在、皇后は返事を待たせた。

が、この話を聞いた天皇は「素晴らしい」とし「裕仁には私の夢を叶えてもらいたい」と答えたのだ。

 

原敬の私邸には脅迫状が多数届いていた。

殿下に欧州外遊をそそのかしたという件であった。

総理へのさらなる警護をという声に原は「宝積という言葉をご存知か」と返した。

「私の行動はすべて殿下の為」

 

裕仁殿下のかっこいい場面なので時間かかりました。

杉浦先生の教え「命をかけて国を守るもひとりのおなごを守るも男子の本懐」という言葉は他ではあんまり見たことがないように思える。

いわば騎士道精神を思わせる言葉でむしろ日本男性の感覚ではないのかもしれない。

裕仁がその言葉を実践してしまう場面は物凄くかっこいいのだ。

男女平等ではないということはない。

互いにそうあればいいのだからね。