第2話は割愛して最終話「禍の男」に行きます。
ネタバレします。
前140年、漢朝は七代皇帝が即位した。十六歳の武帝である。
武帝は歴代の皇帝の政策を受け継ぎ国境を犯す匈奴には今までより多大の贈り物をして和親条約を結び国内政治に力を入れた。
旱魃や洪水もなく農業も豊作続きで農民たちの生活も豊かになった。
政府の穀倉には古米・新米と穀類が溢れ出し露店に山積みされた穀類は腐らせてしまう有様であった。
都の銭蔵には何億という銅銭が使い切れずに蓄えられていた。
だが漢を恨む一人の男がいた。元漢臣の中行説である。彼は漢の禍になってやると心に決めていた。
話は五代皇帝・文帝にまでさかのぼる。
中行説に命が下った。
それは匈奴の老上単于に嫁ぐ皇女の付き添いせよというものだった。歴代続く匈奴との和親条約を続けるための婚姻のため宦官の彼が選ばれたのである。
が、それは中行説が望んだ生活ではなかった。
幼い頃より学問に励み宦官にまでなったのは帝の側にお仕え出世を望んだからだった。
それが家畜の国と思える場所で獣の肉を食らい砂漠に暮らすためではない。朝廷は私の夢をすべて奪った。
よし、それならば私の手で和親条約など壊してやる。
私は漢にとって禍の男となるのだ。朝廷も私を匈奴に送ったことを後悔するであろう。
それが中行説の望みとなった。
中行説は学識をもって単于に取り入り数か月で単于の側近となった。
中行説は単于に対し匈奴は衣食の習慣が違うため漢の援助が必要なかったためなのに今は漢のものを好んで使っている。これは危険な兆候だと進言した。
絹や綿の衣服より毛皮の衣服がいかに優れているか、乳製品がいかに便利で美味か単于様がお示しくださいとも話した。
単于が「だが匈奴は貧しく父の代まで略奪によって暮らしを立てていた。漢の贈り物は匈奴にとって必要だ」と答えると中行説は「ならば漢から奪えばよろしゅうございます」と返した。単于は驚き「その件はよく考えてみよう」と言った。
例年の如く、漢より贈り物が届いた。
単于は中行説に使者をもてなすよう命じた。
中行説が漢からの使者に匈奴の酒と肉料理を勧める。
使者は何気なく「匈奴には老人を卑しむ風習がございますな」と言う。
中行説は憮然とし「漢は若者が辺境の地に行く時年老いた親は自分は粗末なものを着ても息子には温かい衣服を与えたりしないのですか」と問う。「匈奴は草を求めて移動するため他の遊牧民との抗争は宿命のようなもの。年老いて戦いに出られなくなった父親が若い息子に美味い食べ物を譲るのは自分の身を守るためでもある」と答えた。
それでも漢の使者は「しかし匈奴は父が死ぬと子が継母を妻としたり兄弟が死ぬと残った兄弟が未亡人を妻にする。朝廷の礼儀もない」と続けたが中行説はこの後、滔々と匈奴がいかに畜産に適した風習を守って生活しているかを説いた。
そして漢では礼儀の弊害ばかりが現れている。都では上下が恨み合い妬み合い家の豪華さばかりを競い合っている。
使者よ。自国の実情がわかったら他国のことに余計な口出しをなされるな。それよりも良質の品物を約束どおり納めることに気を使われよ。約束を破れば我らは漢に攻め入るまでだ」
それ以後、中行説は漢の使者が何か言おうとしても聞く耳をもたなかった。
そして単于にはさかんに漢侵攻をけしかけ単于もその気になったのだ。
文帝十四年、ついに老上単于は動いた。
十四万の兵を引き連れ蕭関より漢領に攻め入った。
多数の住民を捕え大量の家畜を奪い、さらに首都・長安を伺う動きを見せた。
驚いた文帝は戦車千台、騎兵十万をただちに出動させた。
漢軍は追撃したがたいした戦果は挙げられなかった。
それ以後も漢は匈奴と何度となく和親条約を結んだ。
だが匈奴はそれを一方的に破り略奪を繰り返した。漢を甘く見てしまったのである。
これが中行説の「漢の禍」だったのだ。
やがて老上単于が他界し息子の軍臣が単于となった。中行説は群臣単于にも仕え漢侵攻をけしかけた。
中行説の物語はここでぷつりと終わっている。
いわば中行説の復讐は成功したわけだが彼がどんな気持ちだったのか、どんな思いで最期を迎えたのか。
横山氏はまったくそこには触れていない。
なので最終話の主人公である中行説は復讐続行の姿のまま消え去ってしまう。
幸福だったのか、不幸だったのか、そもそもそんなことを考えること自体無意味なのか。
そもそもは漢朝で出世することが目標で宦官という体になることを選んだ中行説に他の場所での幸福などありえないのかもしれない。
宦官という恐ろしい装置を作り上げながらそれを何の意味も持たない世界に送り込んだ漢朝を中行説はそれほど憎んだのだろう。
この話は彼が宦官だったというのが大きく作用しているのだろう。
さて物語は彼なしで続く。
武帝の時代になっても和親条約は続けられ贈り物も倍増された。さらに匈奴を懐柔するために毛皮との交易も盛んにさせた。
しかし武帝はこの状況に不満を持っていた。
昔とは違い漢は今、匈奴よりはるかに強大な国になっているという自負があった。とはいえ匈奴の強さはまだ脅威でもある。
匈奴討伐の作戦が練られた。
次第に漢の戦力が増していき多くの種族が漢に帰順していくと単于は砂漠の奥深くに移っていった。
漢はオルドス地方を平定に始皇帝時代よりも大きく領土を拡大した。
ここで武帝は始皇帝時代よりも我が国が大きくなったことで自分自身の威光は始皇帝をしのぐ、と考え「朕こそ封禅の儀式を行うにふさわしい」とした。
封禅の思想は春秋時代にでき天命を受けて天子となった者が泰山に登ると仙人になれるというものだ。永遠の国の繁栄を祈るのが封禅の儀式だった。
始皇帝はその方法を秘密裏にしたため文官たちはその方法を調べなければならなかった。
前110年、武帝は文武百官をひきつれ泰山に向かった。
そして封禅の儀式を行った。
劉邦が漢王朝を興してから七代、武帝の時代が漢王朝でもっとも繁栄した時代であった。
司馬遷『史記』の最期の記述、というものが何なのか私にはわかりませんが横山光輝氏が選んだものがこの奇妙な漢朝への呪いみたいな話だったというのが面白い。
つまり中行説がどうなったか、というよりもどんなに華やかに栄えた時代にもこうした禍をもたらす者がいるということなのか。
横山作品はそうした苦みが味わえる。