
この作品の感想を書ける気がしないのですがここ最近あまりにもはまり込んでしまったので思い切って書いてみます。
ネタバレします。
紙の本とデジタル本の両方で現在出版されている15巻までを読み終えた。
なのでまず全体の感想をざっくり書いてみる。
最初に「この作品の感想が書ける気がしない」と書いてしまったのはやはり私が日本人で「天皇陛下」の物語に感想を書くなど畏れ多い、と思わず身構えてしまうからなのだろう。罰が当たるという気もするし神から怒られてしまう気もするわけだ。
しかし本作で描かれる「昭和天皇」はあくまでも「昭和天皇」と格付けされる運命のもとに生まれてしまった男なのだと思える。
それに倣って私も出来得る限り人間宣言をした男の物語について考え書いていこう。
この作品を手に取ってまず思うのは「絵が可愛くない」という事に違いない。
特に作者能條純一氏の愛読者というのでない限り(私はこれまで氏の作品で読んだのはあの『哭きの竜』を少しだけそれも最近)そこではじかれてしまうのではないだろうか。
日本人はマンガ読者であるほどどうしても「可愛い絵柄」に毒されてしまっていてリアルな絵面を苦手にしてしまう。
私もこの作品を知ったのは随分前なのだけど絵を拒否してしまって入るのが今になってしまった。
返す返すも後悔だが仕方ない。
が、いったん世界に入ってしまえばこの絵面こそこのマンガ作品を描くのに相応しいと納得できる。
というのはやはりこの物語は「可愛いもの」ではないからだ。
「この世界」には可愛く美化された者が出てこない。
そうでなくてはならないのだ。
日本マンガの絵面は日本人が自分たちの容姿の醜く思える箇所を「こうであって欲しい」と望む形に変化させている。
言えばあり得ない眼の表現、鼻の形、口元、全身のプロポーションである。
それが本作ではそのままの目の大きさ形、低い鼻や突き出した口、相応の身体のバランスとして描かれる。凹凸の少ない平べったい顔、薄い体、短い指先などに現れる。
下の女性はこの作品中で私には一番の美女と思われる足立タカさんだがその方の描写がこれだ。

眼の描き方がそのままリアルに描かれている。他のマンガ的マンガキャラとはまったく違うのがわかる。
むろんその向こうにいる男性も非常に上品な存在ながら日本マンガで「イケメン」と称される描写に感じられる人は少ないだろう。
こうしたリアルさは作品に行き渡っていて誰かだけが特殊に美麗に描かれてもいない。とにかく今のところタカさんが一番の美女であり昭和天皇が一番のイケメンとして描かれていると思える。
さて次に気づいたのは何だろうか。
演出技法も非常に地味で淡々としたものが用いられている。
この控えめさは派手で奇抜さを求めて尽きない他のマンガに倦んでしまった私にはとても好ましいものに思える。
そしてずっと読み続けていくとはっと気づくのではないだろうか。
このマンガ作品は説明描写をしないのである。
どういう意味か。
マンガでは(映画などもよくあるが)ある事件が発生した時に台詞やモノローグなどの文章で説明するのは「下手な技法」であり絵として(映画なら映像として)表現していくのが「巧い描き方」とされるはずだ。
「台詞だけで文章説明してはいけない」とも言える。
ところが本作ではこうした「描写説明」がかなり制限されている。
大きな事件ほど台詞やモノローグの文章説明で済ませてしまうのだ。
これは作者が「映像説明できない下手な作家」だからか?
いや能條氏は今まで見た数少ない作品でもそうした描写をむしろ得意としていた。
ところがこの作品では映像描写はあえて切り捨てているのだ。
例えていえば226事件の時に「地方では貧しい農家が娘を売春宿に売り払って金を得る」といった悲劇を話す際に他のマンガ作品ではこの部分を絵として描写する。
これは商業マンガの技法として頻繁に見られるものであり、うら若き娘が売春宿で身体を売る場面を描くのは特に男性読者への「サービス場面」として「描くべき美味しいエピソード」とされる。
が、能條氏はそこを描かない。
これはいったいどうしたことなのだろう。
『昭和天皇物語』という尊き作品にそのような場面を挿入するのは許しがたい、という配慮であれば致し方ないが能條氏がそうした場面を描けないはずはない。
また重要人物の切腹シーン(と思われる)場面も描かない。
この意味はなんだろう。
私はこの技法は「昭和天皇が知り得ない場面は描かない」という区分けをしているものではないかと考える。
もちろん昭和天皇の視点のみ、としてしまうとあまりにも狭くなってしまい歴史物語が描きにくいので彼が居ない場所も描かれてはいるができるだけ昭和天皇が考えることのできた世界だけで、という緩やかな制限をしているように思える。
この制限のために他のマンガで面白おかしく描いてきたサービスシーンは排除されてしまったのではないだろうか。
なので陛下の知らない東京の華やかな夜の街などに登場する美男美女や華やかな歓楽はここには描かれないのだ。
むろん本作はまだ途中だし私が見逃がしただけかもしれないのでこれから追っていくうちにこの指摘が間違っているかどうかはわかるだろう。
さて、この作品を通して感じた最初の感想はこれくらいだ。
ここからは最初から追っていこうと思う。

物語は昭和20年(1945年)8月14日夜大日本帝国がポツダム宣言を受諾して昭和天皇の玉音放送をもって日本は敗戦し大東亜戦争を終結した、と始まる。
つまり最終話はここに行きつく、のだろうか。
到着した飛行機から降りてきたのは日本人なら誰もが一度は映像で見ただろうマッカーサーである。
しかしあの有名な背の高いマッカーサーと小柄な昭和天皇が並んで立つという場面は描かれない。
あの写真は「敗戦の象徴」のように言われるものだが本作でそれを描かなかったのにも意味があるように思う。
本作では昭和天皇は自分を「裕仁です」と自己紹介しマッカーサーから「写真撮影をいたしましょう」と誘われた後にふたりだけの会見をしてマッカーサーから勧められたラッキーストライクを断り「私は戦争遂行に伴う如何なることにもまた事件にも全責任を負います」と伝える。
後日マッカーサーは「天皇裕仁はあの日命乞いの為私を訪ねたのではなかった」と述懐した(と描かれている)
「天皇裕仁がどのような人生をどのような数奇な運命をたどってきたのか、私は知りたいと思った」
というマッカーサーのモノローグから本作は昭和天皇の幼少期の物語へと入っていく。
つまり読者である私たちは戦争以前の日本人であるよりもマッカーサー側に近い、ということなのだろうか。
マッカーサーが知りたいと思ったという昭和天皇の数奇な運命を私たちはこれから辿ることになる。