ついに最後の巻になります。
ネタバレします。
前話で死んだ晁錯の物語。
漢が呂氏を討滅し文帝の時代に入った頃、晁錯は法家の学問を学んでいた。
文帝は古代からの政道を記した尚書(書経)を求めていた。ところがそれを知る伏生は済南に住み九十歳を超える老人でとても文帝の住む都まで出てくることは無理なのではと側近は答えた。
そこで晁錯の名が挙がったのだ。
晁錯は秀才との誉れ高い若者だった。
文帝は彼を召し出し済南の伏生のもとで尚書を学ばせることにした。
数年後都に戻ってきた晁錯は太子の侍従に任じられ教育を命じられた。
太子の信頼は厚く晁錯は太子邸の事務から会計まですべてを管理する「家令」にまで出征していった。
ここで晁錯は文帝に上書する。
「諸侯に対してもっと法を厳しくし諸侯の領土を削減すべき」と。
晁錯は「そうして諸侯の力を衰えさせ中央の権力を強大とするのです。そうすれば漢朝は安泰です」
しかしこれに反対したのが袁盎だった。
「確かに秩序を守るためには法は必要です。しかし中央の権力を高めるためだけの法など反対です」と。
袁盎は「各国の王はすべて劉氏一族です。さらに侯を賜った人々は皆功労者です。その方々の領土を削っていけば却って劉氏一族の和にひびが入ります。劉氏の和が乱れて喜ぶのは北方の騎馬民族だけでしょう」と申し上げる。
晁錯と袁盎は犬猿の仲となる。
文帝は晁錯の意見は取り上げなかった。
が、やがて文帝が崩じ、太子が即位し景帝となった。
と同時に晁錯は内史(首都の知事)に取り立てられた。
ここから朝廷は乱れていく。
晁錯と景帝のふたりだけで法が定まっていくのである。
側近らはこの事態を危ぶんだが景帝の晁錯傾倒は強くどうしようもなかった。
晁錯は勤める内史府は太上皇(高祖の父)を祀った廟の境内にあった。
だがここには東門しかなく晁錯は出入りに不便を感じていた。
晁錯は廟の南の外塀に穴を開け、もう一つの門を造らせたのである。
これを知った丞相は晁錯の失脚を感じた。
臣が劉家の祖廟に許しもなく手を加えたという不敬を突き処刑を求めることができると考えたのだ。
だが丞相が奏上する明日の朝議の前にこのことが晁錯に知らされてしまった。
晁錯は夜分にもかかわらず景帝を訪れ「迅速に仕事をこなすために外塀に門を作った」と同意を求めてしまったのである。
翌朝丞相が景帝に晁錯の不敬罪を申し上げた時景帝からは「報告を受けている」と答えられ問題にならなかった。
丞相の心は煮えくり返り「晁錯を斬ってから帝に奏上すべきだった」と憤死してしまったのだ。
晁錯はまもなく御史大夫(副宰相兼監察長官)に昇進した。
そして念願だった「諸侯の領土削減政策」を実行し始めたのだ。
だがその前に今は呉の宰相となっている袁盎を誅殺せねばならないと考えた。彼がいると必ず邪魔をしに来るに違いないのだ。
そこで「袁盎は呉王に厚遇されているという賄賂の罪」をかけることにした。
晁錯は袁盎を都に召還し厳しく取り調べて景帝にその旨を申し上げ「死刑にすべきです」と告げた。
しかし景帝は父・文帝から「何かあれば相談せよ」とまで言われていた袁盎に対しいかに寵臣・晁錯の言葉とは言えそのまま応じることはできなかった。
「官位を剥奪し隠居させるがいい」と判断したのである。
こうして袁盎は政治から切り離されてしまった。
さて晁錯は領土削減にとりかかる。
文帝の頃に法に触れた諸侯を洗い直し領土を削減していくのだ。
部下に諸侯の罪を調べさせた。まず趙王と膠西王が罪を問われて領土を削られる。
楚王は薄太后の喪中に姦淫した罪に問うた。
次に考えた呉は晁錯が特に気にする理由があった。
かつて景帝が太子だった頃、酒宴の席で呉の太子と博奕に興じていたのだ。
ところが博奕の規則について口論となり激怒した景帝は博奕盤を呉の太子に投げつけ殺してしまったのだ。
(なんという)
怒った呉王はそれ以来病気と称して参朝せず朝廷を無視し続けていた。
だが文帝はそれを咎めず呉王にひじかけと杖を贈った。それは老人ゆえに参朝の義務を免除する、という意味であった。
呉は銅の産出が多く、海水を塩にする商いもあり莫大な利益を得ている。その富で軍を増強しているという脅威がある。
晁錯は呉王の罪を見つけたかった。
ところが呉も密かに動き始めていたのだ。
呉王は老齢ながら自ら膠西王に会って盟約をかわした。
ふたりの意見は晁錯を誅伐し劉氏一族の手で国を正道に戻したいというものだった。
ふたりは着々と連合軍を作り上げていった。
その頃、晁錯は法を三十章改定し、呉を今までの罪によって領地を削減すると決定していた。
異議を申し立てる者はいなかった。
誅伐を怖れたのだ。
それから間もなく晁錯の父親が訪ねてきた。
父親は息子の評判を聞き及び諫めようとしてきたのだが晁錯は漢朝の威厳を保つために行っていると答え父を失望させた。
父親は郷里に戻って毒を飲み自害した。
呉楚七か国が反乱を起こしたのはそれから十日後だった。
呉には朝廷からの使者によって罪を問われ二郡を召し上げるとされた。
が、呉王は「従わぬ」と答え使者を斬り捨てさせ続けて朝廷から派遣された役人らを反乱の血祭とした。
そして西進を開始した。
これにならって楚王、趙王、各国の王たちが同じように行動していく。
「呉の反乱」の報を受けた晁楚は怒り袁盎が何故これを報告しなかったのだと罵り召し捕って全貌を暴き出してやると言いつのったが側近が「今はそれより反乱軍鎮圧が先決」と抑えた。
が、呉軍を鎮圧するにはやはり呉の宰相だった袁盎に情報を聞くべきとして景帝は袁盎を召し出す。
袁盎は「この反乱はすぐに鎮圧できます」と申し上げた。「だがその前にお人払いを」として晁錯を景帝のそばから離させたのである。
晁錯は苦悶の中で退出するしかなかった。
袁盎は恵帝に「諸侯の反乱は高祖から分与された領地を賊臣晁錯によって削減されてしまったことに発している。諸侯の目標は晁錯を誅殺し領土を取り戻すことでありそれが済めば速やかに矛を収めよう」と申し上げる。
つまり解決法は一つ、晁錯を殺すこと。
反乱軍の勢力は漢に匹敵するものでありその他の諸侯も晁錯の領土削減政策に納得はしていない。これ以上反乱軍が増えたらどうなるのか。
景帝はやむなく晁錯殺害に賛同した。
翌日晁錯は参内の途中で殺された。
袁盎は晁錯がいまだに自分を誅殺しようとしていると密かに知らされ逆に晁錯を殺したのである。
呉王は二十万の軍で楚軍と合流し梁を攻めた。
梁王も呉楚連合軍と戦ったが二軍を撃破される状況だった。
袁盎は景帝の使者として呉王の陣を訪ねた。
袁盎は呉王に「すべては晁錯が独断で行ったこと。景帝も気づかれ晁錯は罰せられ領土を元に戻すと約束されました。なにとぞ兵をお引き揚げください」と申し上げた。
ところが呉王は「もう遅い」とし「我らは盟約でこの国を二つに分けて治めることに決めた。わしは東の帝となる」そして袁盎に「漢朝よりわしに仕えぬか。呉の財力は知っておろう」と告げたのである。
袁盎は「二三日考えさせてください」と退出して呉陣を抜け出し梁の陣営に逃げ込んだのだ。
一方、景帝は反乱軍鎮圧を条侯周亜夫に命じた。周亜夫は周勃の息子である。
条侯は急ぎ滎陽へ走った。
漢の大軍は滎陽に集結した。
梁王はここに援軍を求めたが条侯は反乱の首謀者・呉王の本隊に全軍で向かうつもりだと答えたのである。
「梁王は景帝の弟君ですぞ」と怒る使者に「城をしっかり守っていればそう簡単に落ちるものではありませぬ。しばらく自力で防衛をお願いします」と返すのみだった。
周亜夫は淮陽に着き鄧都尉を訪ね対呉楚戦法を問うたのである。
鄧は「東北へ向かい昌邑に砦を築き守りを固めてください。呉は全力で梁を攻めるでしょう。その間に淮水と泗水の合流点に遊撃隊を出し呉の糧道を断ち切るのです。
呉・梁とも交戦に疲れ兵糧が尽きた頃を見計り全精鋭を繰り出して攻撃してください」と答えた。
条侯は全軍を東北昌邑へ向けた。
一方呉王は度々諸将から別動隊や奇襲を提案されたが重臣たちがこれに反対し一つになって着々と西進するのを選んだ。
周亜夫は鄧都尉の助言をそのまま実行していった。呉軍の補給路を徹底的に破壊したのだ。
やむなく呉王は昌邑のにわか作りの砦を攻めることにした。
周亜夫は呉軍の攻撃を受けたが慌てず兵力を西北の酉でに回した。
周亜夫の読みは当たった。呉軍は向きを変え西北の砦に押し寄せた。
だが西北の酉では呉軍を一気に叩くため待ち構えていた。さらに左右からも呉軍を挟み撃ちにして呉軍の兵力を半減したのだ。
ここで兵糧が尽き恩賞目当てで馳せ参じた兵士たちは夜逃げを始めた。
呉王はやむなく東越に逃げ込んだ。
その頃、膠西王、膠東王らは斉の首都に猛攻を加えていた。
しかし三か月かかっても攻め落とせずにいた。
ここで「呉王が死んだ」という報が入る。
呉王は再起を図ろうとここ三十年仲良くしていた東越に逃げ込んだがひとりの刺客によって殺されてしまったのだ。
越はその首を都に届けたのだ。
また楚王も呉王の死を知って自決したという。
呉楚が滅んではこの計画の成功はない。
やむなく膠西王らは帰国することにした。
やがて漢の大軍が現れ各城を包囲。各王は城門を出て降伏し漢軍の前で自決した。太后、太子もその後を追った。
漢は再び平和になった。
この劉一族の乱は新官僚が諸侯の力を削ぎ漢朝の権威を急いで高めようとしたことから起こったものである。
その後、弟の梁王が帝の後継者を自分にするよう景帝に申し入れた。
だが、袁盎が反対しその話は壊れた。梁王はそれを恨み、袁盎を暗殺した。