ネタバレします。
劉邦は首都咸陽に入った。そして豪華な咸陽宮に目を奪われた。
宝物殿そして後宮の美女を見て劉邦は「ここで暮らす」と喜んだ。
だがこれを樊噲と張良によって反対されてしまう。「良薬は口に苦けれど病に利あり」と言われどちらにも手を出さぬよう念を押されてしまう。
劉邦の答えは「法というものは善人を守るためのものなのに秦の報は人を罪人にするための法だった」というものだった。
張良はそれで行きましょう、と相槌を打つ。
「法を変え新しい時代になったことを知らしめるのです」
そこで劉邦は「よし、法は三つだけとするぞ」と言い出す。
「一つ、人を殺した者は死刑。二つ、人を傷つけた者は処罰。三つ、盗みを働いた者は処罰」
今まで法によってがんじがらめになっていた民は歓声を上げて喜んだ。
こうして劉邦はここでも人気者になる。歓声に送られて灞上に引き返した。この時軍勢は十万であった。
劉邦はある男にそそのかされて函谷関を閉じてしまう。項羽を締め出してしまう行為だった。
それで後に項羽を怒らせてしまうのだがこの時は劉邦も舞い上がっていたのかもしれない。
項羽は諸侯の兵と合わせて四十万の軍勢となっていた。劉邦の四倍である。
それがなぜ関中一番乗りできなかったのか、それは項羽が敵を皆殺しにしていったからである。
降伏しても殺されるとなれば敵は最後の一兵まで戦い続ける。この抵抗で項羽軍は遅々として進まず劉邦に大きく遅れて函谷関に到着したのである。
函谷関に到着した項羽はすでに劉邦の旗がひらめいているのを知りその門が閉じられ兵によって通行を断られたことに怒ったのだ。
項羽は黥布に命じて函谷関を攻めさせた。
函谷関を守る劉邦の兵たちの数はわずか。形ばかり抵抗すると逃げ出してしまった。
項羽は函谷関を突破し鴻門に布陣した。灞上とはニ十キロほどの距離である。
項羽のもとに曹無傷という男から密使が届く。劉邦は関中の王座を狙って秦王子嬰を宰相として秦の財宝を独り占めにしたという。
しかしこれは范増によって虚偽だと見破られた。それでも范増は項羽に「劉封には用心なさい」と勧告する。「劉邦は四分の一の兵力で関中に一番乗りし法を三つだけとして秦民の懐柔策を行い更に気に食わないのは宝物殿を封印し後宮の女に手を出さなかったことです」
項羽がその真意を問うと「劉邦は昔から欲深く女好きで有名なのに今回聖人君子のようにふるまった。これは野心があるからです。今、劉邦を殺しておかなければ項羽将軍はいつか劉邦の前に跪く日が来るでしょう」
これには項羽は大笑いし亭長あがりの劉邦に何ができると嘲った。
范増は「できるだけ早く劉邦を討ちとってくだされ」と念を押す。
これを聞いて青くなったのが項羽の叔父、項伯だった。
項伯は劉邦軍の参謀・張良の親友だったのである。(いろんな関係性があるね)
項伯は夜中単身で張良の陣へ向かった(なんという熱い友情か)
張良も親友の訪問を受けた。
項伯は張良に脱出を勧めたが張良は義を欠くわけにはいかないと断った。
ここで劉邦は張良に「つまらぬ小者から函谷関で諸侯を追い出せばすべて劉邦様の者になる」とそそのかされたことを話す。しかし考えればとても項羽軍に勝てるわけもないと劉邦は張良に泣きついた。
張良は項伯に「項羽将軍に背く気はないと口添えしてもらいたい」と頼まなければならないと劉邦に助言した。
こうして劉邦が直接項羽の元へ出向き釈明する、という形で収められた。
しかし范増は「それならばその宴席で劉邦を討つのです」と項羽に迫る。
項羽は范増の勢いに「わかった」と承諾した。
それから数日後劉邦は百騎の供をつれて鴻門を訪れた。しかし陣内に通されたのは劉邦と張良だけ。劉邦はへりくだって項羽の質問に釈明していった。
項羽は叔父の項伯の説明を受けて誤解は解けたと告げ再会を祝って宴席を設けている。そこで戦勝を祝おうと招かれた。
こうして酒宴が開かれた。有名な「鴻門の会」である。
劉邦は卑屈な態度で項羽をおだて項羽はすっかり優越感にひたっていた。
范増は前もって示し合わせていた合図を項羽に送るが項羽は劉邦をすっかり見くびってしまっていたので殺す気などなくなってしまっていた。
項羽の態度を見た范増は立ち上がり警備をしていた項荘に「余興と称して剣舞を舞い、劉邦に近づいて殺せ」と命じた。
これに殺意を感じた項伯は「剣舞には相手が必要」と言って立ち上がり自ら相方を舞い始めた。
項荘は劉邦に近づこうとし項伯は劉邦に近づけぬよう盾となって舞った。
これを見て張良は厠へ行くふりをして席を立ち樊噲に知らせた。
樊噲は陣幕に入りこみ「劉邦の家来樊噲にございます。朝から外に立ちっぱなし。お流れを頂戴しとうございます」と殺気を漲らせた目でにらみつけた。
項羽はこれを面白い男よ、と酒を与えさらに豚の生肉の塊を与えた。
樊噲は酒を飲み干し生豚肉を盾の上でぶつ切りにして平らげた。
「まだ飲めるか」という項羽に樊噲は「死ぬ覚悟で所望した。どうして辞退いたしましょう。しかしその前に申し上げたい」と「劉邦が関中一番乗りを果たし財宝にも見向きもせず盗賊にそなえ函谷関を守らせ灞上で項羽将軍の到着を待たれた。何故この功労に対し小人の言葉を信じて殺そうとされるのか」と問い詰めた。
項羽は「わしはそんなつもりはない」と諫めた。そして樊噲に「それほど心配ならこの席に着くことを許す」とした。
しばらくして劉邦は厠に立ち樊噲もこれに続いた。
この後張良もふたりが遅いと様子見に立った。
張良はふたりが灞上に帰るのを送り出し劉邦が持ってきた項羽と范増への贈り物を渡してから自分も帰途についたのである。
劉邦からの贈り物を項羽は喜んだが范増は怒ってそれを叩きつけ自らの刀で砕いてしまった。
范増はあれほど項羽に今のうちに劉邦を殺すように言ったのにこの若造は言うことを聞かなかった。
項羽は二十六歳で天下の最高実力者にのし上がった。
王者らしく髭を生やし堂々と咸陽に入った。
ここでもまた項羽は秦王一族を皆殺しにする。
秦王子嬰をはじめ都市一族八百余名そして官人四千名がことごとく処刑された。
秦民はこの大虐殺によってより劉邦に好感を持つようになる。
さらに項羽は宝物殿の財宝を運び出させて宮殿に火を放させた。咸陽宮そして阿房宮もまた焼き払ったのである。
また始皇帝陵にも巨万の富が埋められたと聞いていた項羽はこれも掘り起こさせた。
そして地下宮殿にも火を放った。
始皇帝と二世以降帝が作り上げた者は全て焼き払われ咸陽は焼け野原となった。
この行為の後、項羽は楚に帰ると言い出した。
ここに都を置くべきと進言されても項羽は故郷に錦を飾ると言い張った。
これを聞いた説客が「その人間は猿が冠をかぶったにすぎぬ」とつぶやく。この説客はかまゆでの刑に処せられた。
さて彭城にいる懐王は関中平定を聞き項羽に約束通りにいたせと使者に伝える。
これは関中一番乗りした劉邦は関中の王になることを意味していた。
が、項羽にそんな心づもりはない。これには范増も賛成だった。
諸侯とも話し合い楚の懐王を帝としてたて国を分割してそれぞれ王に封じることにしたのだ。
秦は三分割された。これを三秦という。
そこをもらえるはずだった劉邦はもっと「左に遷す」ことになった。その場所は巴、蜀、漢中でありそこも関中には違いないのである。これなら約定違反ではないと范増は言ってのけた。(これから「左遷」という言葉が生まれた)
巴蜀は秦が罪人を流した土地であったが劉邦に否応が言えるはずもない。
そこへ劉邦を追いやれば例え東進を企てても三秦が阻止してくれるという算段である。
范増が「項羽様はどの地をお望みか」と問うと項羽は「わしの故郷・楚じゃ」という。
彭城にいる懐王を別に移し自分自身が彭城に住んで覇王を名乗るというのだ。
范増は懐王を長沙の僻地に移すこととした。
劉邦軍では自分たちが巴蜀という断崖絶壁の僻地へ追いやられると聞き口論となる。
しかしそこに張良がやって来て祝いの言葉を述べた。「ものは考えよう。范増は劉邦の命を狙っているが巴蜀へ行けば命は守られる。そして安全な場所で時機到来を待つのです」さらに「漢中に入る時に賛同は焼き払っていくべきです」とした。
その時期が来ればまた造り直せばよろしい、というのだ。そして自分自身は韓王のもとへ帰るというのである。
こうして諸侯はそれぞれの封地に引き上げ始めた。
劉邦も漢中に行く兵を募った。
その中に楚の雑兵・韓信もいた。
韓信は色々項羽に進言していたがまったく受け入れてもらえず漢軍に入ったのである。
さて項羽は彭城から懐王を追い出し「義帝」と名付けて長沙の僻地へと追いやった。
さらに黥布に命じて義帝を暗殺したのである。
項羽は得意満面彭城に凱旋。後宮の美女三千人と秦の財宝を持ち帰った。
だが、項羽が彭城に落ちつけたのは束の間であった。
張良の予見が的中したのである。項羽は斉王田市を膠東に移し斉の将軍田都を斉王としたがこれを斉の宰相田栄が認めず田都軍を打ち破ったのである。
田都は楚に亡命。ところが斉王田市は項羽を怖れて膠東に移ってしまったのだ。
田市のために田都を打ち破った田栄はこれに怒り自ら斉を治めることにして田市を暗殺したのだ。
項羽はすかさず兵を出し斉軍を撃破。田栄は死んだ。降伏してきた斉の兵士はことごとく生き埋めとなった。
この殺戮に斉の民は怒り却って団結することとなった。
田栄の弟田横は敗残兵を集めて各地で抵抗した。
このため項羽は北方に釘付けとなり、劉邦に東進の機会を与えたのである。
虐殺の項羽、どうしたって好きにはなれない。