ガエル記

散策

『史記』第十二巻 横山光輝 その2

第2話「離間の策」

陳平の物語。

とにかく陳平のお兄さん陳伯が良い人である。弟の才能に期待して自分一人で年中働き僅かの金も陳平の勉学に回していたという。凄い。どうしてそこまで弟に期待できたのか。しかもこの弟、こともあろうに兄嫁と密通している。なんてこった。

というか陳平さん、背が高く非常に美男子だったという。今でもそうだろうけどこの時代はとにかく容姿が大切みたいですね。容姿が良いので次々と人に認められている感があります。

とはいえ魏の王に仕えたが軍略が採用されず逆に回し者ではないかと疑われるのだがそれを親切に教えてくれる男がいた。

うーむ何かこの人も人に好かれる素質があるな。

そこを逃げ出し楚の項羽軍に身を投じるがここでも項羽とうまくいかず脱出。

劉邦の陣へ向かって走った。(身軽な人だ)

知人の魏無知を訪ね、劉邦に推挙して欲しいと頼む。(とにかく人に好かれているね)劉邦に面会するとすっかり気に入られ楚での待遇と同じ都尉として任じられ劉邦の馬車に陪乗することを許された。

 

楚との戦いは終わらない。

陳平は劉邦に「離間の策」を進言する。楚の主だった臣はわずか数人。この君臣関係をばらばらにすれば勝てるというものだ。

間者を放ち黄金数万金を使って「楚の君臣らが漢と通じている」と噂をばらまく。項羽は人を信じないので必ず疑心暗鬼になり内部分裂いたしましょう。

その後和睦を申し出て楚からの使者への対応でとどめを刺すのである。

果たして項羽は陳平の仕掛けた罠にまんまとはまり軍師・范増が漢と内通していると確信してしまう。

さすがに処刑はしないまでも范増が引退を申し出ても引き留めもしなかったのである。

だが范増は故郷に帰る途中で病に倒れ全身に膿がまわって死んでしまった。

「敵の策略にのり疑われて死ぬのは無念である」と言い残した。

これを聞いた項羽はやっと漢の謀略に気づく。范増の弔い合戦を決意した。

怒った項羽は滎陽城を猛攻して落としさらに成皋城まで落とした。劉邦張良らはかろうじて関中へ逃げ延びた。

 

だがこの陳平の「離間の策」は劉邦の天下取りに大きな役割を果たした。項羽韓信、陳平に続き范増と。智謀の士を次々と失った。陳平は漢王朝誕生後、治世にその才をいかんなく発揮していくのである。

 

第3話「四面楚歌」

項羽に滎陽成皋を取られた劉邦だが関中で軍を立て直し再び東進を開始した。

そして滎陽成皋の奪回に成功した。

その頃、項羽は彭越を追っていた。彭越は野盗だったが秦打倒に蜂起し今や一万の部下を抱えていた。しかし秦滅亡の論功行賞で何の地位も得られず困っていた。劉邦はこれに目をつけ楚の領土は「切り取り勝手」と約束して楚軍の兵糧庫や輸送部隊を襲わせたのである。

項羽は兵糧確保のためにも彭越を討伐しておく必要があった。

 

一方その頃北伐の韓信は斉王を討ち斉の主都に入っていた。

その時劉邦から楚軍を討てという使者が送られる。

しかしここでまたもや蒯通によって「斉王になってから救援に向かいなされ」という進言をされる。

韓信は躊躇するがさらに蒯通に「仮の王として表文を送ってみなされ」と勧められる。

劉邦は使者から韓信の表文を渡され激怒する。が、張良・陳平に諭され「わしは項羽とは違う」と言って張良韓信へ斉王の印を届けるように命じた。

一国一城の主になるのが夢であった韓信の喜びようは大変なものだった。

 

その報を受けた項羽は「韓信を味方にできないか」と考える。

斉王となった韓信にお祝いと称して贈り物をし昔の罪を謝罪して両国の友好を結びたいと使者を送ったのだ。

だが韓信はかつて楚にいた時に項羽に無視され続けたこと、漢王は上将軍にして三軍を任され今や斉王にしてくだされたことを考えれば漢王を信頼すると答えて楚の使者を返した。

ここでまたも蒯通が韓信に進言した。

「私があなた様を斉王に勧めたのは天下を伺う足掛かりになるとおもったからです」という。「漢王に天下を取らせるために働いている」という韓信に「あなたが天下を取るのです」と蒯通は言い返し「あなたは漢王を信じすぎておられる。あなたは戦の天才ですが平和になれば不必要なのです」

しかしそれでも劉邦を裏切ることはできない、と答えた韓信に蒯通は失望した。そして謀反を勧めたことが劉邦の耳に入った時の報復を恐れ狂人のふりをしていずこかへ去っていったのである。

(中国の話、狂人のふりをするの多いなあ)

 

ここで張良劉邦に進言をする。「彭越が糧道を断っているので楚軍の兵糧がそこを突いたそうです。天下を二分する条件で和睦を申し出れば今なら項羽は応じるでしょう。そうなればご両親や奥方様も無事取り戻せます」

これに劉邦は賛同した。

ところで張良さんがとても好きです。人格もですが頭の上のフライパン返しのような不思議な物体がとても良い。何だろう、頭が良くなりそうですね。ハンサムは何でも似合う?

しかしこれが後に恐ろしいことになるとは、この時誰も思わなかったであろう。

ぶるぶる

 

劉邦は「さあこれで戦は終わった。帰国するぞ」と喜色満面ほっとしていましたが

(こっちのほうがよりよく見えた)

 

項羽が油断している時に追撃するのです」と張良・陳平は劉邦をけしかける。

「両雄並び立たずと申します」

 

劉邦はおののきながらも賛同し韓信や彭越にも出兵するよう伝えさせた。

が両軍とも劉邦軍に参加せず劉邦は敗走した。

頭を抱える劉邦張良らが進言。漢王が天下を取れば韓信にも彭越にも大きな地域を与えることを約束し諸侯にも項羽を討ちとれば大きな褒賞を与えると伝えさせる。

これで人々は動き出し漢軍は総勢百万となった。

 

項羽の軍はその三分の一、しかしこれまでも三万の兵で五十六万の漢軍を蹴散らした。

劉邦の本陣h三十万、ならば兵力は互角、目指すは劉邦の首だけ。

項羽は漢と決戦すべく彭城を出た。

この中に虞美人もいた。項羽はこの女性を愛しいつも側から離さなかったのである。

項羽劉邦の本陣目指して突入した。

だが睢水の合戦時とは違い今度は韓信が万全の布陣をしていた。さらに項羽の首を取れば地位と千金が約束されている。諸将の目の色も違った。

漢軍は次から次へと新手の兵を繰り出して楚軍を攻めた。さすがの楚軍もだんだん旗色が悪くなり大きな被害が出始めた。

項羽軍は四方を山に囲まれた垓下に逃げ込んだ。

ところがどういうわけか愛馬の烏騅が足を突っ張り動かなくなった。仕方なくここに陣を敷かせた。

楚軍は五万になっていた。

四方の山々には漢軍の赤い旗が翻っていた。

それから連日項羽は漢軍と戦った。それでも項羽は強かった。それを見た楚軍も奮い立ち項羽に続けと暴れまわった。漢軍は大きな被害が出た。

 

ここで韓信は楚軍を兵糧攻めにしようと言い出し張良も賛同したがそれに加え「楚の歌を聞かせ故郷の家族を思い出させるのです」

 

兵糧の道が封鎖され楚軍は飢え始める。

夜どこからか簫の音が響き楚の歌が歌われた。

もの悲しく胸を揺さぶる調べに故郷を思い涙する兵士もいた。

「それにしてもなぜ漢の陣営から楚の歌が聞こえるのだ」「これは楚の人間が歌っているのだ」「漢はすでに楚を平定し降伏した楚兵に歌わせているのでは」

飢えと不安で兵士たちは苛立った。

「項王は虞美人と酒ばかり飲んでいるではないか」

 

その夜、楚兵は続々と楚陣を離れだした。

叔父の項伯も項羽を見捨てた。

陳平の「離間の策」で項羽との仲が壊れた将軍たちもいた。

漢軍は武器を捨てた楚兵は黙って通した。

四面楚歌は絶大な効果を発揮したのだ。

翌朝陣は空になっていた。

残った兵は八百余名だった。

そこへ虞美人が声をかけてきた。

事の次第を聞き虞美人は「ではわたしも男の姿でお供します」という。

項羽はしばらく待てと部下に言い虞美人と二人きりになった。

項羽は自分の気持ちを歌にした「山を抜くほどの力もあった、だが時は味方せず烏騅も動かない。愛する虞よ、お前をどうしてやればよいのだ」

項羽は虞美人に生きていて欲しいと告げる。

虞もまた歌い剣舞をお見せしますという。

虞は歌い舞い剣で己の首を斬って果てた。

 

項羽は八百騎を前陣と後陣に分け漢軍を突破した。

漢軍は怒涛の如く押し寄せまずは後軍を全滅した。

項羽は江東をめざして次々と漢陣を突破していった。四潰山までたどり着いた時項羽の供は二十八騎となっていた。

見わたす限り漢軍だった。

我らが江東に兵を興してから戦えば必ず勝った。それが今この有様だ。だがこれは我らが弱くてこうなったのではない。天が我らを見捨てたからじゃ」

項羽以下二十八騎は四隊に分かれて漢軍に突入した。

生き残りの強者たちは三度突撃し三度多くの漢兵を蹴散らした。

「天よ見たか、わしは弱くて負けたのではないぞ」

項羽以下二十六騎はそのまま烏江へ走った。がそこで項羽の気が変わった。

烏江を渡れば江東だ。項羽は八千の子弟を預かって兵を興したがそれらを皆死なせてしまった。自分だけが生き残ってどう詫びればいいのか。武将らしく潔く討死し、その小名を後世に残したい。

項羽は愛馬烏騅から降り烏騅を自由にした。供の者も皆降りた。

そして徒歩で漢軍に斬りこんだのである。

項羽は手傷を負いながら数百人を討ちとり自決した。

漢将たちは自分の手柄にせんと同士討ちまで初めてその死体に群がった。

項羽の体は手足首とばらばらになった。項羽、享年三十歳であった。

 

劉邦は約束の恩賞を与え項羽の廟を建てさせた。

 

劉邦は漢王になってから五年、漢楚の戦いは終わった。

項羽は貴族出身であったために肩書を重んじ、農民上がりの劉邦は身分を気にせず才能を重視した。それが勝敗を決めたのである。