ガエル記

散策

『史記』第十二巻 横山光輝

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

第1話「背水の陣」

劉邦は五諸侯を味方にし、五十六万という大軍で東進を開始した。だがわずか三万の楚軍に撃破され、命からがら滎陽城に逃げ込んだ。

まもなく敗走した漢軍を集めて韓信も滎陽城に入ってきた。

劉邦は最も惨めな睢水の戦いの後で気弱になり「項羽は勢いに乗ってここに攻めて来る。咸陽に引き返そうか」と言ったが韓信は強気だった。

平地であることを利用して戦車戦に持ち込む計画だったのだ。

急ぎ戦車を増産させた。攻めてきた楚軍は十万。しかし韓信は「すでに備えはできております」とわずかの供を連れて城を出た。

 

項羽は皆殺しの勢いで突進したちまち漢軍は総崩れとなったが城へ逃げ込まず平地へと走った。

勝利を確信している項羽軍は追撃する。そこには大量の戦車が待っていた。

戦車は左右から楚軍に突入していった。

戦車には御者と射手と長い戟を持った兵士三人が乗って攻撃する。その後ろを四、五十名の歩兵が続く。

楚兵はバタバタと倒れた。形勢は一気に逆転したのだ。

項羽の運命もこれまでかと思われた時、後陣の楚軍がかけつけかろうじて窮地から脱出し彭城へと引き返した。

項羽にとっては初めての敗戦であった。

 

しかしここで斉・趙・魏が項羽と和議を結ぶという報が入る。

趙では陳余が張耳の首が偽首だと知っての和議であった。

劉邦は酈食其に魏豹を説得するよう命じたが魏豹の答えは「漢王は粗野で下品で礼儀知らずだ。成り上がり者の横柄さだけが鼻につく。あんな人物の下につくのはいやだ。項羽も好感はもてぬが劉邦はもっといやだ」であった。

この報告を受けた劉邦の側で張良がくすっと笑うのが良い。

張良はあの始皇帝暗殺を企てた男であった。

 

劉邦はまたも韓信に北伐を命じた。

魏豹は十万の軍勢を引き連れ平陽から発進。安邑を本陣として黄河の東岸蒲坂に布陣した。

韓信はその西岸に布陣しいつでも渡河できるよう船を並べた。

韓信は別動隊を作って夜中ひっそりと黄河を北上した。部下に木製の桶を集めさせそれをつなぎ合わせた筏を作り上げ黄河を渡ったのだ。

そして安邑の西魏の本陣に襲いかかった。魏豹はあっけなくとらえられ西魏は降伏した。

次に韓信は趙へと向かう。

ここで漢軍は山道の狭い隘路を通らなければならなくなる。ここで襲われたらひとたまりもない。韓信は間者を使って趙の様子を探った。

趙王のまえで李左車が隘路で漢軍を襲うことを進言するのを陳余将軍が押し留め「奇襲などもってのほか。二十万の軍勢をもって正々堂々と戦うべき」と反論してこれが同意された。

韓信は安心して隘路を通った。そして別動隊に漢の旗を持たせて城がカラになった時になだれ込むという作戦をとった。

韓信は河を渡り趙の城に対して背水の陣をとった。

これを見た陳余将軍は大笑いして全軍で撃って出た。

後退のできない漢軍は必死の抵抗を見せる。陳余はやむなくいったん引き揚げの号令をかけた。しかし城はすでに漢軍に乗っ取られていた。

優勢のはずの趙軍が混乱をきたす。ここで韓信は再び出撃し城からも別動隊が突撃して趙軍を挟み撃ちにした。陳余は討ちとられ趙王も捕らえられた。

 

これが韓信の「背水の陣」である。

その言葉は最期の一番勝負とか決死の覚悟で事に当たる、という意味で今日でも使われている。

(というかこの意味で使われているので私は最近まで「背水の陣」を良い意味だと思い込んでました。考えたら良い意味のわけないんですが。日本では物凄く多く使われていませんか。「背水の陣」やったらダメなんだよ、と今頃知る)

孫子「兵は死地に陥れられてはじめて生き、死地に置かれてはじめて存す」やめてくれよそれさ。

韓信はここで広武君李左車を見つけ出して先生と呼んで語らった。

李左車は謙ったが韓信はなおも頭を下げた。

李左車はそこで「漢軍がこのまま燕に攻め込めば敗けると思います。兵士が疲れ切っているからです」と言い「戦死した兵士の家族を労り助けてやれば趙に人々の心をつかむことができ食べ物や酒を献上してくるでしょう。それを兵士たちに与えて休養させるのですと説いた。そしてまずは燕に降伏をするよう使者を送るのです。応じない場合だけ休養した兵士を差し向ければよいのです」

 

さらに韓信は斉へと向かったがここで漢が斉と和議を結んだという知らせを受ける。酈食其が話し合いで和議をまとめたのだ。

漢王・劉邦からの王命はきていない韓信は自分の行動に迷ってしまう。

ここで「韓信将軍がここで斉を攻めないのは王命違反になるのでは」という進言を受ける。「韓信将軍が一年以上をかけて落とした城より酈食其が舌先三寸で奪った城の数の方が上なのです。漢王はどちらの手柄を上とみるでしょうか。王命に従いその名を天下にとどろかせるか、王命に逆らい手柄を横取りされるか」

しかし酈食其を見殺しにせねばならない。

韓信は斉攻撃を決意し、斉の城を次々と落としていった。

これで酈食其は斉王の怒りをかい即座に釜ゆでの刑にされたのだ。

斉王は項羽に救援を求め龍且将軍が救援に駆け付けた。

韓信は濰水の上流をせき止め水量の少ない濰水の中で決戦をした。龍且軍が水の少ない河の中に留まっているのを見計らって逃走し上流の堰を落とした。

龍且軍二十万は凄まじい水流に飲み込まれていった。

龍且はかろうじて岸にあがったが待ち受けていた漢軍に討ちとられた。

他の這い上がった楚軍も捕虜となった。

逃げていた斉王も捕らえられて処刑された。

 

項羽と劉邦が一進一退を繰り返している間に韓信は北伐を遂げ天下は項羽劉邦韓信の三大勢力となったのである。

 

韓信の戦いが凄すぎてここまでになってしまいました。

最初はすごいすごいで済んだのですが「背水の陣」を効果的に使ってしまったのが日本人に悪い影響を与えているし(絶対大日本帝国軍人魂こやつからだ)酈食其を見殺しにしてしまうのをわかっていながら攻撃するのはあんまりだ。しかも釜ゆで・・・。

有能なのでしょうが韓信は感心できない。

やはり「股くぐり」をしてしまうこと自体良いことではないと思えてしまうのである。